カポエイラ・ブログ -Roda de Papoeira-


パポエイラとはカポエイラに関するパポ(おしゃべり)のこと。このホーダにはカポエイラに関心のある人なら誰でも参加できます。いちおう管理人としてグンガは久保原が担当してます。Ie~~
by vadiacao
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あなたのカポエイラはどれですか? ④

第2幕

アンゴラ、ヘジオナウの衰退と「コンテンポラニア」の出現

■40年代、50年代にかけてビンバとパスチーニャのカポエイラはひとつのピークを迎えます。60年代にはリオやサンパウロに現在のカポエイラの発展の礎を築いた若手カポエイリスタたちが活動を始めます。70年代はバイーアのヘジオナウ、アンゴラ双方にとって決定的なダメージをこうむった時期になりました。ビンバがバイーアから去り、74年に異郷ゴイアニアで死去。パスチーニャもだまされて道場を失い、脳溢血に倒れ、ほぼ失明状態の中、81年養老院で92年の生涯に幕を閉じます。

■バイーアの衰退と平行して、ブラジル南部の大都市においては、よくも悪しくもカポエイラが飛躍的に普及していきました。サンパウロの事情については「カポエイラ研究室」に雑文を書いていますが、そこではさまざまな地域出身のカポエイリスタたちが交流し、アンゴラとヘジオナウが混ざったスタイルが育っていきました。バイーア州はイタブナ出身のスアスナはヘジオナウ系、カンジキーニャの弟子であったブラジリアはアンゴラ系でしたが、この2人が共同でコルダゥン・ジ・オウロを立ち上げました。サルヴァドールでは考えられないコラボレーションが、サンパウロで実現したのです。

f0036763_11304277.jpg■リオにおいても、マウタ【malta】(カポエイラのギャング団)たちが活躍した19世紀のカポエイラ、その後カポエイラの国技化を目指したズーマ、シニョジーニョたちのカポエイラは忘れ去られ、完全にバイーアのカポエイラに取って代わられます。中でもその橋渡し役として大きな影響力を持ったグルーポ・センザーラの若者たちは、ビンバの弟子たちとの接触を中心としながらも、バイーア詣でを重ねる中で、伝統的なカポエイラのメストリたちからも多くを吸収しました。

■パラナ州のクリチバでは、1973年メストリ・セルジッピによってカポエイラが紹介されました。セルジッピはメストリ・カイサーラの弟子でしたが、やはりアンゴラをそのまま継承しませんでした。1975年、リオからメストリ・ブルゲイスがやってきて、グルーポ・ムゼンザが活動を始めます。彼のスタイルは、当初からアンゴラもヘジオナウも両方するとしたものでした。
 
■このような南部において発達したカポエイラが、今日で言うところの「カポエイラ・コンテンポラニア」の土台です。しかし当時は「コンテンポラニア」などという「名のり」も「名づけ」も存在しませんでした。そもそも「コンテンポラニア」というポル語は、英語の「コンテンポラリー」に相当し、「現代の」「同時代の」という意味です。そうすると、これほど無意味な名づけ方もないわけで、つまり今は現代でも、10年後には過去になるわけですね。じゃぁその時点で今のコンテンポラニアはどう呼ばれるのかということになってきます。ネオ・コンテンポラニア、ポスト・コンテンポラニアみたいな呼び方が出てくるのでしょうか?

■では当時のサンパウロやリオではなんと呼ばれていたのでしょう?答えは単にカポエイラです。そこではアンゴラもヘジオナウも両方教えるという宣伝文句が注目を集めました。「1つで2度おいしい」というわけですね。しかし実際は、アンゴラ(パスチーニャ派という意味での)でもなければヘジオナウでもない、両方のオリジナルからかけ離れたタイプのカポエイラが広がり始めていたのです。もちろんこういうタイプのカポエイラの出現それ自体が間違いだとは誰にもいえません。ビンバにせよ、パスチーニャにせよ、独自の解釈によって新たな要素を付け加え、それまでのカポエイラを変化させたという点ではいっしょなのです。ビンバに許されたことが他の人には許されないという道理はありません。いかなる時代においても、伝統とか文化というのは絶えず創り出されるものだからです。ただ、ひとつ批判を受けるとすれば、これをもってヘジオナウとアンゴラを両方すると名乗ってしまうことですね。最初からアンゴラでもヘジオナウでもないと言っておけば良かったわけです。

f0036763_11313499.jpg■アンゴラとヘジオナウの融合についてですが、、実はサルヴァドールでもビンバ、パスチーニャの時代から、両者の交流や結果としての融合の動きは見られていました。見かけ上のライバル争いとは別に、パスチーニャの生徒もビンバの生徒も交流はあったのです。ビンバの生徒がパスチーニャのホーダに行くときは、ヘジオナウの技を封じて使わなかったといわれています。そのような状況の中で「カポエイラはヘジオナウもなければ、アンゴラもない。自分はカポエイリスタだ。ただしカポエイラは、ビリンバウのトーキによって変わる。フェスタに行って、ボレロが流れればボレロを踊るし、サンバが流れればサンバを踊る。カポエイラも同じだ。ビリンバウがゆっくりになれば、ねちっこいジョーゴをするし、スピードが速まれば動きだって早まるのだ」という、メストリ・カンジキーニャの発言なども生まれてきました。

■同時に今日考えられているほど、当時のヘジオナウとアンゴラはかけ離れたものではなかったのも事実です。「メストリ・ビンバとカポエイラ・ヘジオナウ」に掲載したビンバのグアルダを見てもお分かりの通り、その柔らかさはアンゴレイロと見まごうほどですし、逆にアンゴラのメストリの中にも立った姿勢を多用し、直線的でハードな攻撃を繰り出す人もいたわけです。したがって、この時点での「カポエイラはひとつだ」という見解にはそれなりの説得力もあったんですね。カンジキーニャ以外にも、画家のカリベも「カポエイラはひとつだ。変化はビリンバウのトーキによるものだ」と言っています。

■ところで実はパスチーニャも「カポエイラはひとつなんだ【capoeira e uma so】」という発言をしています。しかし彼の場合は、要するにアンゴラだけしかないという意味での発言でした。「ビンバもわしと同じくらいアンゴレイロなのじゃ」として、ヘジオナウ以前のカポエイラはアンゴラなのだと考えていたのです。今日アンゴラのコヒードで「capoeira e so angola」と歌われるのは、この考え方の名残りだと考えられます。ともあれ、このような「カポエイラはカポエイラ。それはひとつなんだ」という言説が、南部というまた別の文脈で都合のいいように再解釈されていくことになります。

■このような南部のカポエイラの影響は、カポエイラの聖地サルヴァドールにも逆輸入される勢いを持ちました。カポエイラはさまざまなアクロバットの動きと組み合わされ、マクレレやサンバ・ジ・ホーダ、プシャーダ・ジ・ヘジなどとセットで、舞台の見世物になりました。今日、自称・他称ともにアンゴレイロとみなされているメストリたちも、当時はショーだと割り切って、アクロバチックな演目に出演していました。またパスチーニャの後継者的存在だったジョアン・ピケーノも、「コンテンポラニア」やヘジオナウの発明品であるコルダゥンやバチザードを採用するに至っていたのです。

<文字数の関係で次に続く>
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by vadiacao | 2006-04-08 13:26 | カポエイラ全般
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