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カポエイラ・ブログ -Roda de Papoeira-


パポエイラとはカポエイラに関するパポ(おしゃべり)のこと。このホーダにはカポエイラに関心のある人なら誰でも参加できます。いちおう管理人としてグンガは久保原が担当してます。Ie~~
by vadiacao
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政岡さん連載⑤ 「帰国とカポエィラとの離別」

 延長してもらった研修期間も終え、1979年2月にサンパウロから東京へと帰国しました。

 カポエィラについては、いろいろ複雑な思いがありました。一方、ジェツリオ・バルガス経営大学院は必要な単位取得、総合判定試験などを終えていましたが修士論文の提出が残っていました。それから1年半以上をかけ、1980年11月に修士論文を完成し1981年5月の審査でジェツリオ・バルガス経営大学院を修了します。総合商社での仕事が忙しく、何度も修士論文の執筆を断念しかけましたが、何とか修士論文を完成させることができたのはブラジル時代のカポエィラでの鍛錬のお陰とまたカポエィラの練習を日常生活のなかにうまく組み入れたためであったと思います。ブラジルでのジェツリオ・バルガス経営大学院では、毎日ニワトリが鳴くのが先か、ベッドで寝入るのが先かという睡眠時間を極端に切り詰めた生活が続きました。これを何とか乗り越えられたのは、昼休みや夕方を利用してのカポエィラの練習でした。いわゆる知的作業の疲れは運動で解消できる、また極端な睡眠不足も運動することによる快適な疲れで睡眠の長さではなく深さで解消できると実感できました。

 日本に帰国してからも、勤務先で何とか午後7時~7時半に仕事を終わらせ、新宿に開店したスポーツ・クラブへ駆け込み、午後8時~10時までトレーニングをし、独身寮へ帰り夕食をとり午後11時半から午前2~4時頃まで修士論文を書くという生活が続けられたのは、カポエィラのお陰であったと思います。このスポーツ・クラブは、午後7時50分から10時までの格安の限定使用の会員券を発行していましたので、仕事が早く片付く限り土日を含めほぼ毎日のように通いました。

 このスポーツ・クラブの大きな体操場の隅には筋肉トレーニング用の器具が置かれ、そこにサンド・バッグが吊るされていました。ジェツリオ・バルガス経営大学院への修士論文も片付き、より時間をかけてスポーツ・クラブでジンガや防御技をしながらサンド・バッグを蹴ってトレーニングをしていました。1982年の頃だと思います、一目で格闘家と分かる体格の良い人が話しかけてきました。本職は歯科医ながら、有名な実戦空手流派の有段者で、神奈川県警の空手師範の肩書きのある名刺をもらいました。『最初踊りかなと思ってみていたが、サンド・バッグの蹴り方をみると格闘技ですね。それは一体、何ですか。』との質問に対し、カポエィラの説明をしました。『マニアックな格闘技にあこがれる若者が多いので、道場を開けば、沢山人が集まりますよ。道場破りに来るような者がいても、自分の流派にはこういった連中を好んで相手する若者がいるので安心してください。よければ手伝います。』と勧めてくれました。この勧めに少し迷いましたが、総合商社での仕事の忙しさを理由に丁重にお断りしました。お金を取る以上責任をもって時間を割いて教える必要があります。こういったこと以外に、他の格闘技の強さに頼りたくないという思いがありました。鍛錬を続けていけば更に強くなれると考えていました。

 しかし、現実は甘くありません。いつかは、カポエィラ道場を開こうとの気持ちだけで、思い切りの悪さから時間のみが経っていきます。仕事でお酒を飲み、麻雀をする機会が増え、さらに友人の勧めで始めたスキューバ・ダイビングにのめり込み、少しずつカポエィラの練習が減っていきました。結婚をし、仕事は更に忙しくなり、いつしか新宿のスポーツ・クラブにもそれほど足を運ばなくなっていきました。1985年頃には一切カポエィラの練習を止めたと思っていましたが、先日机の引き出しから鍵を見つけました。何の鍵かと必死になって思い出したところ、東京時代の住まいであった下落合の近くの神社にあった道場の鍵であることを思い出しました。この道場では、若い空手家が空手を教えていましたが、自由な時間にカポエィラの練習をしたいからと頼み、合鍵をつくらせてもらったものです。  

 1989年2月に総合商社からヒューストンへ駐在員として赴任しますが、それまで細々とカポエィラの練習は続けていたようです。しかし、加齢と体重増加に加え鍛錬が出来ていませんので、見るも無残な動きしかできなくなっていました。一度『昔はカポエィラというのをやっていたんだから』と家内に振る舞いをみせましたが、『まるで豚が踊っているよう』とからかわれるようになっていました。ヒューストンでは、更に太りコレストロール値が310を越え、医者から強く体重の減量のために運動を勧められ、ゴルフを始めました。日本とは比較にならないくらい安くゴルフができましたので、ゴルフにどんどんのめり込んでいき、カポエィラとはまったく縁のない生活になりました。
by vadiacao | 2006-05-17 12:58 | その他・雑談
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