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カポエイラ・ブログ -Roda de Papoeira-


パポエイラとはカポエイラに関するパポ(おしゃべり)のこと。このホーダにはカポエイラに関心のある人なら誰でも参加できます。いちおう管理人としてグンガは久保原が担当してます。Ie~~
by vadiacao
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政岡さん連載⑥ 「ある日の気付き」

 1993年9月ヒューストン駐在を終え、念願であった出身地の関西支社での勤務となりました。総合商社で管理職になっていましたので、仕事、付き合いなど忙しい毎日の明け暮れでした。仕事での付き合いのゴルフコンペが多くあり、コンペに勝つために暇があればゴルフ練習場で球を打っていました。昔カポエィラで鍛えていた体力にかまけ球を打ち続けていたために、1996年には椎間板ヘルニア、いわゆる腰痛になってしまいました。

 話は前後しますが、1995年に阪神大震災に見舞われます。神戸市西区の自宅は幸いに僅かな被害に留まりましたが、生まれ育った故郷が甚大な被害を受けた光景を見て、神戸から離れたくないとの思いが強くなっていきました。このまま総合商社に勤めていけば必ず東京本社もしくは海外への転勤を命ぜられる、何とかこのまま神戸に居たいと思い続けていたところ、勤めていた総合商社が魅力的なリストラ策を打ち出しました。早期退職を前提に2年間の休職を認めるというものでした。1999年8月に総合商社を休職し、大学教員の道を目指して母校神戸大学に研究生として戻り、勉強を開始しました。商社マンから再び学生生活に戻ったわけです。それまで常に先のことばかり考え、あまり過去のことを振り返らずにやってきましたが、学生生活に戻り、自然に過去のことを振り返る時間ができました。成功や失敗、人を手助けしたことや迷惑をかけたことなどふと思い出すことが多くなりました。

政岡さん連載⑥ 「ある日の気付き」  _f0036763_121119.jpg 1977年7-8月 リオで行われた全国大会の翌日に散策した際の写真

 右からハイムンド・カルネイロ(軽量級代表)、カルロス・セナ先生、政岡氏(軽量級代表)、ヘナン・アラウージョ(中量級代表)

政岡さん連載⑥ 「ある日の気付き」  _f0036763_1422770.jpg


 同上

 左から2人目がメストリ・カルロス・セナ






 2001年4月に満50歳となり、同年5月に総合商社を早期退職しました。その年の9月頃だったと思います、妙だなと気付いたことがありました。日本人の自分がブラジルのバイア州でのカポエィラ選抜大会や更には国内大会に出場できるはずがない、なぜ出場できたのだろうとの疑問です。突然、1977年リオ・デ・ジャネイロでの全国大会前の2日間にわたる激論の声を思い出しました。バイア州選抜チームはリオ・デ・ジャネイロのホテルで宿泊しましたが、そのホテルには全国大会に参加した他州のメストリー達も宿泊し、試合のルールなどについて会議をしていました。最初の夜から激論がありました。怒鳴りあう声は、ホテルの廊下まで響いていました。セナボックスの兄弟子であるハイムンド・カーネイロが廊下に出て聞き耳を立てて中の議論を窺っていました。小生が、『何を議論しているの、ブラジル人は議論好きだな。』と軽口できいたところ、実に厳しい顔で『試合ルールでもめているが、これは決着がつきそうだ。怒声が飛ぶほど激論しているのは、君の出場をめぐってのようだ。』とハイムンドが応えました。

政岡さん連載⑥ 「ある日の気付き」  _f0036763_158965.jpg
 1977年秋 サルヴァドールで行われたバイーア州カポエイラ大会の上位入賞者、優勝者たちと

 政岡氏はサンパウロに移る直前だったため、この大会には不参加

政岡さん連載⑥ 「ある日の気付き」  _f0036763_1492939.jpg 次の試合前日の夜は、小生もハイムンドと一緒になって、会議の開かれている部屋の前で聞き耳をたてました。カルロス・セナの大声が聞こえてきます。『ブラジルに柔道、空手、テコンドーなど東洋の格闘技が入ってきた。今、日本にカポエィラを伝えるチャンスがある、なぜマサオカの出場を認めないのか。』これを聞いたときは、嬉しさの反面、日本で教えると義務付けられるのは嫌だなと、感じたことを覚えています。激論は続き、小生だけ部屋に戻りました。暫くするとハイモンドが部屋に戻ってきました。親指を上に立てて、『うまくいったようだ。メストリー(カルロス・セナ)が最後に君の出場を認めないのであれば、バイア州選抜チームは団体戦の参加を取り止めこのままバイアに帰ると主張し、他州のメストリーの反対を押し切った。』と言いました。記憶の底から浮かび上がってきたこの出来事で、これまで何もしてこなかったとの後悔に襲われました。

政岡さん連載⑥ 「ある日の気付き」  _f0036763_212355.jpg
 上と同じ大会の試合風景

 黒服が主審で、旗で勝敗を合図する。ほかに副審が2人付く。





政岡さん連載⑥ 「ある日の気付き」  _f0036763_15492.jpg 同時に、1978年のサンパウロでの苦い思い出が蘇りました。前年のバイア州選抜チームの一員として全国大会で団体優勝できましたので、サンパウロでは州代表として全国大会で個人優勝を目指し練習を積み重ねました。アゴスト先生にもこの目的を告げ、道場から推薦で1978年サンパウロ州選抜大会に臨みました。1回戦の相手は、何とこの道場の若手師範でした。変な組み合わせだなと思いながらも、相手は余り実戦が得意でないと知っていましたので、トーナメントで続くあとの試合に余力を残せると内心喜びました。ホダに入る前に相手と座って向かい合っていた時のことです。主審が、ジロジロと小生を見ています。小生はすでに前年のリオ・デ・ジャネイロ全国大会で、彼が最後まで小生の参加に反対をしたメストリーであることに気づいていました。このため、凝視されるのを無視し、顔を背けていました。主審が急に小生に話しかけてきました。いわゆるジリア、俗語で、これに対し小生は差しさわりのない言葉を返したつもりでしたが、主審の表情がサット変わりました。『こいつブラジル日系人ではない、あの日本人だ。』と思ったのでしょう。合図があり、アウでホダに入り試合が始まりました。1分を過ぎた頃、相手のスキに乗じ、アハスタオンで相手を倒しました。二人の副審が小生の勝ちを告げる旗を揚げます。しかし、主審は試合続行を命じます。倒し方が不十分であったのかと思い試合を続けました。相手は興奮して必死になって蹴りこんできます。カポエィラの試合は返し技が有効で、興奮すればおしまいです。こうなっては蹴り倒すのは簡単でしたが、同じ道場の相手なので打撃を与えないよう、倒し技に専念しました。更に、相手をチゾウラで2回倒し、3分間の試合が終了しました。試合は1本勝ちのルールなので実際は3本勝ちだ、毎回副審の旗が揚がっていたので、判定でも問題ないと思いました。二人の副審の旗が、同時に小生の勝ちを告げました。これを見て、主審が勝者の旗を揚げるわけですが、主審は相手の勝利を伝える旗を揚げました。すぐに二人の副審が主審に詰め寄りました。話し合が続くので、小生は体育館の片隅に陣取っていたアゴスト先生の道場の参加者の中に戻り、見守っていました。若い頃の悪い癖で、小生は少しずつ興奮し始めました。アゴスト先生に何であんな判定がくだるのかと抗議をしましたが、何かの手違いで判定が覆るから興奮しないようにと何度もたしなめられました。数分間の話し合いの後、副審がこれはおかしいというジェスチャーをしながら主審から離れていきます。主審は、次の試合を促しました。つまり、判定は覆りませんでした。これを見て、小生は一気に怒りを爆発させてしまいました。この1年何のために激しいトレーニングをしてきたのかとアゴスト先生にまくし立てました。アゴスト先生は、敗者復活戦を含め試合は続くので残るようにとたしなめましたが、その制止を聞かず、次の試合をする選手が座って待機するホダの中に入り込みました。敗者復活戦では勝ち続けても州代表にはなれない、これで終わったとの思いが込み上げてきました。こんなトーナメントはこちらから放棄してやる、文句がある奴は掛かって来いと大声で抗議をし、試合会場を去りました。これは、スポーツマンとしてあるまじき行為です。どんな判定でも従うべきで、いくら若いといっても悪態をつき試合会場で怒鳴るなど許される行為ではありません。悔しさと自己嫌悪で数週間はアゴスト先生の道場に行きませんでした。何とか気を取り直し、アゴスト先生の道場に戻りました。試合会場を去ったことへの非難を覚悟していましたが、暖かく迎えてくれました。

 この主審を長く恨みました。ブラジルに滞在していたときは、道場を探し、目の前で生徒を片端から倒してやろうかと物騒なことも考えました。しかし、今になって思うと、そもそも日本人である外人がブラジル国内大会に出場できるほうがおかしいと考えるようになりました。そうであれば、この主審の判定は不公平なものではなく、むしろ、当然ではなかったかと思うようになりました。穿った見方をすれば、外人が国籍を偽り、国内大会に出場したと思われても仕方のない、むしろ、出場そのものを取り消されても当然のことかもしれません。このように考えるのと、続く試合を放棄して会場をあとにした自分の行為で、アゴスト先生にその後どんなに迷惑をかけたのか、謝りたいと思うようになりました。アゴスト先生も小生のサンパウロ州選抜大会参加に苦労したのではないか、それならば前年に同様のバイア州の選抜大会への参加、更には他の州の反対を押し切り小生の全国大会出場を実現してくれた、カルロス・セナ先生はどれほど大変だったかという思いが募りました。さらに、カルロス・セナ先生には、カポエィラを日本で教えることもなく過ごしてきたことを謝罪したいと思いました。このまま二人に会って謝らないと、死ぬときに自分の人生を振り返り、きっと後悔するだろうなとの思いは日増しに強くなっていきました。しかし、アゴスト先生とは1980年代の半ば、カルロス・セナ先生とは1989年のヒューストン転勤を境に、クリスマス・カードのやり取りもなくなり、連絡の方法が見つかりませんでした。
by vadiacao | 2006-05-27 02:02 | その他・雑談
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