カポエイラ・ブログ -Roda de Papoeira-


パポエイラとはカポエイラに関するパポ(おしゃべり)のこと。このホーダにはカポエイラに関心のある人なら誰でも参加できます。いちおう管理人としてグンガは久保原が担当してます。Ie~~
by vadiacao
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新しいタイプのイベントの構想

 バチザードでも講習会でもない、ただひたすらカポエイラを満喫するためだけの、ゆる~い集まり。そんな集まりを作れないだろうか、と少し前から構想しています。

 カポエイラで何が楽しいといって、気のおけない仲間とホーダを囲み、冗談を言いながらただジョーゴをする。やめたいときにやめられる、飲みたいときに飲める、最初から最後まで笑顔の絶えない、そんな集まりです。

 「正しい、正しくない」というのはグループによってさまざまな基準があるでしょうが、「楽しい、楽しくない」というのは、もっと単純で、理屈じゃないところがあります。そのむかしバイーアの広場や港で行われていたヴァジアソン(カポエイラ)のイメージ。ありあわせの楽器を持ち寄って、着のみ着のままホーダを楽しむ。仕事の休憩時間や日曜の昼下がりに、自然に起こってくる遊びの輪。

 「あれをやっちゃいけない、こうしなければいけない」。カポエイラがスポーツ化されてから、ユニフォームができ、グループごとにさまざまな規則がつくられ、どんどんカポエイラが不自由になってきています。ホーダの座り方はこうでなくてはいけない、靴を履かなければジョーゴをしちゃいけない、Tシャツがズボンから出ようものならジョーゴは即刻中断、ホーダのどこからでもコンプラをして良い、volta do mundoは常に時計回り、シャマーダでは目上の人を呼んではいけない・・・、などなど。それぞれのグループが、それぞれの理由を持って独自のルールを設けています。

 もちろん各グループがどんなルールを決めようと、そのグループの自由です。それを自分たちのグループ内だけの話にしておいてもらえれば、別に私がとやかく言う問題でもないんですが、ブラジルでもっともポピュラーなSNS「orkut」でのカポエイラ・フォーラムにおける議論を見ても、それがあたかもカポエイラ全体の「伝統」であるかのごとく、他のグループの人たちをも教化しようと躍起になっている人たちがいます。かつてポルトガルの宣教師たちが「野蛮」なインディオに文明の光を教えてあげようと、キリスト教という自分たちの勝手な「真実」を押し付けた姿に重なります。

 カポエイラの歴史を少し勉強すれば誰にでも分かることですが、これらの決まりは特定のグループ内で作られたもので、カポエイラに昔からあったものではありません。例えばホーダを囲むのに腰を下ろすというのだって、道場で習い事(スポーツ)としてカポエイラが教えられるようになってから始まった傾向です。それまではバテリア(楽器演奏者)もカポエイリスタも立ってホーダを囲むのが一般的でした。だって警察が来たらすぐ逃げなければならなかったんですから。服装だって上半身裸、裸足、短パン、なんでもありでした。路上のホーダの話ですよ。というより当時は路上にしかカポエイラがなかったんです。

 ところでカポエイラにとってこの「路上」という環境はなかなか重要です。「やはり野に置けレンゲソウ」ではありませんが、野生の動物を檻に入れたり、野の花をちょん切って花瓶に挿したりするのは、それはそれで有益な側面もあるでしょうが、やはり自然な状態とはいえません。カポエイラだって、もともと生まれたところに返してやったときにこそ、楽しさも美しさも輝きを取り戻すと思います。カポエイラ・ヴァジアソンが毎月のホーダを体育館の中ではなく、路上にこだわって行っているのもこういう理由によるものです。

 「カポエイラは奴隷たちの自由への希求だ」とパスチーニャは言いました。奴隷たちは自由を求めたんです。今日でも「カポエイラの本質を一言で表現すると?」と聞かれて、多くのメストリたちが「liberdade(自由)」と答えます。誰もが「カポエイラ=自由」だと信じています。あるいは願っています。もちろん奴隷が求めた基本的人権としての「自由」と、カポエイラを楽しむ上で規則に縛られて感じる「不自由さ」とを同じ次元で語るつもりはありませんが、それにしても今日のカポエイラって本当に自由だといえるでしょうか?

 そんな難しい話じゃないんです。そこにいて緊張・ストレスを強いられるホーダ、「間違えたらどうしよう、怒られるんじゃないか、何か注意されるんじゃないか」とビクビクしなければならないホーダは、不自由で楽しくない、というだけのことなんです。規則を増やすから、「間違い」も増えるんですね。

 さらにもうひとつ楽しさを阻害する大きな要因は、暴力性に対する過度な緊張感です。「あの人怖そうだな、ハステイラなんか入れちゃったら、マジギレして無茶苦茶やってくるんじゃないかな?」という、過度の恐怖心もリラックスしてジョーゴを楽しむことを邪魔します。

 もちろんカポエイラは格闘技でもあります。いたるところに罠の仕掛けられたマンジンゲイロどうしの対戦では、常に一定の緊張感を持っておく必要があるのは言うまでもありません。ただそれがお互いの信頼関係に裏付けられたものであるかないかというのは大きな違いです。ハステイラでひっくり返されても、Opa!と笑いながら相手をたたえられるような雰囲気、観客がそれをキャーキャーはやし立てても、誰も眉間にしわを寄せていない雰囲気。転ばしても転ばされてもアミーゴだという相手に対する安心感があるときに、私たちは本当の意味でジョーゴを楽しむことができるのではないでしょうか?

 おしゃべりだってそうですよね。仕事上のお客さんと話すときは、笑顔でいてもどこか作り笑いになっているものです。しかし本当に気心の知れた友達となら、音楽も流れていない車内でとくに言葉を交わしていなくても、全然気まずいことなんかないはずです。カポエイラのホーダも、そういう仲のいい仲間内でやるジョーゴが実は一番楽しいんだと思います。

 フランスはマルセイユを拠点に活躍しているメストリ・カマレオンのグループが、毎年、「Vadiando entre os amigos(アミーゴどうしのカポエイラ)」というイベントを開催しています。リオやバイーアから仲のいいメストリたちをゲストに招いて、あとはヨーロッパ中の、これまた仲のいい人たちだけが集まってカポエイラをするイベントです。これと同じコンセプトのイベントをメストリ・マホンが今年の2月にリオで行って、それには私も参加しました。そのときの居心地の良かったこと。こういうイベントなら日本でもやりたいと思いました。

 こういう提案を聞いて、「何やそれ?」と眉をひそめる人はとりあえず来なくていいんです。しばらくは遠くから様子を見てて、これはよさそうだなと感じられた段階で来ていただくとして、最初は「おお、面白そうだね、やろうやろう」と乗ってくる人たちだけで、こじんまりでいいから、和やかにまったりと楽しみたいものです。


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by vadiacao | 2008-09-26 01:05 | カポエイラ全般
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