カポエイラ・ブログ -Roda de Papoeira-


パポエイラとはカポエイラに関するパポ(おしゃべり)のこと。このホーダにはカポエイラに関心のある人なら誰でも参加できます。いちおう管理人としてグンガは久保原が担当してます。Ie~~
by vadiacao
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カテゴリ:カポル語道場( 36 )

『Na roda da capoeira』 14

【訳出済み】 次回(10/3)のテスト範囲は36ページの「a origem da capoeira」までです。

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 カポエイラの都市 
 リオ、バイーア、レシーフェは、アフリカからつれてこられた黒人奴隷の文化が色濃い港湾都市だ。カポエイラは、ブラジルの古い都市で発達した文化現象だと考えられている。

 リオでは、1890年共和制の初期に署長サンパイオ・フェハイス率いる警察たちの厳しい迫害を受けた。カポエイラは刑法の中で犯罪と規定され、それを行った者たちはフェルナンド・ノローニャ島に流された。

 カポエイラたちはリオの市民たちに恐れられていた。彼らはマウタと呼ばれるグループを形成し、商業の利権や選挙区をめぐって縄張り争いを繰り広げていた。カミソリや棍棒を見せびらかし、公共の治安を脅かしたとして訴えられる者たちが、警察の書類に頻繁に登場する。
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 この時代には、マンドゥーカ・ダ・プライアやプラタ・プレッタといった有名なカポエイリスタたちいた。後者はヴァシーナの乱のリーダーの一人だった。それは1904年にサウージ区で起こったヴァリオーラの予防接種義務化に反対する民衆の蜂起だった。

 バイーアではカポエイラは都市や町の地域文化の一部となった。その遊戯的な側面は儀礼化され、楽しいゲーム、あるいはヴァジアサゥンとencenadaされるようになった。ビゾウロやシリ・ジ・マンギ、メストリ・パスチーニャ、メストリ・ビンバといった名前は伝説化され、今日まで彼らの業績はホーダの中で歌い継がれている。

 レシーフェにもナシメント・グランジのような伝説と化した荒くれ者のカポエイラがいた。リオのようにペルナンブーコでも厳しい取締りが行われた。さらにメストリ・サーラやポルタ・バンデイラのダンスを通じてリオのカーニバルに影響を与えたのと同じ形で、ペルナンブーコの首都でも似たことが起こった。カポエイラはフレーヴォのステップの創造に重要な影響を与えたのだ。しかしながらブラジルの最も古い港湾都市の文化形成に密接なかかわりを持つというだけでは、カポエイラの起源を説明するには不十分だ。


Os mitos de origem
 神話とは多くの場合、ある出来事の誕生の瞬間について説明しようとする物語だ。カポエイラの場合についても、起源をめぐる語りはアフリカとブラジルの間を揺れ動き、論争の多い語源学の議論を見ることができる。

 カポエイラという語を、トゥピ語の「低い林」という言葉に結び付けるのは一般的だ。起源についてのひとつの説によると、ゲームの名前はこの林から来たという。そこへ奴隷たちが逃げ込んで、その中の空き地でカポエイラをしたという。またそこにおいてカピタゥン・ド・マトという追っ手を迎え撃ったと信じられている。 

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by vadiacao | 2010-10-31 20:14 | カポル語道場

『Na roda da capoeira』 15

 ようやくこの冊子も最終回です。以降はメストリ・ブラジリアのDVDに集中しましょう!

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 しかしながら別の仮説はその起源を都市環境、とくに港湾地帯に求める。そこで利得奴隷たちは「カポエイラ」と呼ばれる大きなかごを頭の上に担いでいた。その語は去勢された雄鶏を意味するcapaoに由来するとされる。そのかごの中には鶏が入れられており、市場に運ばれた。そこではしばしば闘鶏が行われた。そのため闘鶏の様子を奴隷たちのしていたゲームに関連付けられて、カポエイラと呼ばれるようになったと考えている研究者もいる。

 動物や自然との関連付けも起源神話の一部だ。動物たちの動きを観察しまねをするところからカポエイラの動きが生み出されたという。アフリカ起源を擁護したい者たちにとってはンゴロのダンスが持ち出される。それは中央アフリカに伝わる儀式で、二人の若者が処女の女性をかけて跳んだり、蹴ったり、頭突きをするもので、それらはサバンナのシマウマの動きを観察して学ばれたとされる。
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 この説はアンゴラの絵描きアウバノ・ジ・ネーヴィス・イ・ソウザが1960年代にサルヴァドールのパスチーニャのアカデミアを訪れた際に語ったもので、バイーアのホーダで見たゲームと祖国にあった儀礼を結びつけたのであった。このようにいくつかの説は、考えられているよりごく最近のものだ。

 しかしながら動物の動きを真似てカポエイラが生まれたという説に関しては、カポエイラはブラジル内で生み出されたということを暗示している。すなわちブラジルに存在する動物たち、蛇や豹、鷹などの動きを観察して編み出されたとされているからだ。
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by vadiacao | 2010-10-28 13:10 | カポル語道場

『Na roda da capoeira』 13

【訳出済み】 次回の単語テスト範囲は34ページの最後までです。この冊子の翻訳も次回含めてあと3回です。あとちょっと、頑張りましょう!

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サロマゥン、聖書に登場する知恵の王は、カポエイラのほかの歌の中でも登場する人物だ。今日エチオピアとして知られている地域にあった王国のサバー女王との恋愛関係が、彼を人々の記憶にとどめ、アフリカ系の人々の口頭伝承の中で語られることになった。メストリ・ビンバは、道場のシンボルとして「cinco salomao」を採用した。世間で知られている5つの先端からなる星のマークの周りを円で囲んだもので、カポエイリスタにお守りとして信じられている。しかしながらビンバのマークには6つの先端があった。それは彼にとってはバランスを意味していた。ビンバは、宗教的シンボル的な意味に加えて、カポエイラのホーダの伝統的な「オーケストラ」を作るために使用される楽器の編成にも変更を加えた。


os instrumentos
カポエイラ・アンゴラの伝統の中では、アタバキ、アゴゴ、ヘコヘコ、パンデイロに加えて、音の高さの異なる3本のビリンバウが使われる。ビンバはヘジオナウを創出したとき、1本のビリンバウと2枚のパンデイロだけにした。その後彼の後継者たちは、アタバキやアゴゴなどいくつかの楽器をあらためて採用するにいたっている。

 カポエイラの中心的な楽器はビリンバウだ。どの時代にカポエイラの中に導入されたかははっきりしていないが、20世紀初頭のいくつかの資料によると、その時代にはすでにこの目的で使われていたことがわかる。それ以前は、奴隷の物売りが周りの注意を引くために利用していた楽器であったことが知られている。

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 1本の弦でカーブさせられたビリンバウは、バチで弦をたたきながら、硬貨や石で音色を調節する。カシシと呼ばれる小さなガラガラも使う。

  中央アフリカに特徴的な楽器でありながら、ヨーロッパでもそのバリエーションが確認されている。アンゴラのホーダの中で3本のビリンバウを使うのは、カンドンブレの宗教世界に倣ったものと考えられる。そこではフン、フンピ、レという、音の高さの違う3つの太鼓が用いられる。さらにカポエイラの中で使われるアタバキ、アゴゴといったほかの楽器も、黒人の宗教儀礼の中で使われる一般的なものだ。

 ビリンバウやパンデイロは、カポエイラの最後に行われることが多いサンバ・ジ・ホーダなど世俗的なシーンでも使われる。このようにカポエイラの音楽はバイーアの文化環境と密接にかかわっており、カポエイラにおける地域文化の影響を示している。

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by vadiacao | 2010-10-25 19:17 | カポル語道場

『Na roda da capoeira』 12

【訳出済み】 今回の範囲は30ページの「rutual das rodas」から32ページの下から7行目「iniciar seu ritual」まで。


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ビリンバウの奏者がコヒード(2行か4行の短いフレーズからなる曲)を歌い、ホーダの取り巻きの人々がそれを繰り返す。

 サン・ベントはアンゴラの守護聖人で、2つのビリンバウのリズムの名前にもなっている。様々なリズムにしたがって、ホーダをコマンドするメストリはプレーヤーにジョーゴを促し、ジョーゴの始まりと終わりもメストリが決める。もしビジターがジョーゴをしたいと思えば、メストリの許可を得なければならない。一般的に誰でもホーダで楽しむことができる。とりわけ今日では女性や子供の参加が多くなってきている。

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メストリがいないときは最も古い生徒がグンガ(もっとも音の低いビリンバウ)を弾き、ホーダの責任者となる。カポエイラ・アンゴラのホーダではゲームの時間はより長く、数分にわたるが、決まった時間というものはない。ゲームは、グンガが特定のリズムでサインと送ったときに終了する。それは相手と握手をして、次のペアに場所を譲る合図なのだ。

 ヘジオナウ、あるいは腰帯を用いるグループでは、ビリンバウによるコマンドはなく、ゲームの時間は1分に満たないこともある。それは「ジョーゴ・ジ・コンプラ(ゲームを買う)」と呼ばれ、次の一人がゲームをしているペアの間に割って入り、そのうちの一人を選んでジョーゴを続けるというものだ。

 グループやメストリごとにホーダに対するそれぞれの考え方があるのは言うまでもない。そのため上に記述したルールは固定したものではなく、どのグループでも通用すると考えてはいけない。そうではありながら多くのホーダは、お別れの歌で締めくくられることが一般的だ。

コヒード

 ヘジオナウでは、ホーダのはじめ方が違っていて、メストリ・ビンバはラダイーニャではなくクアドラという形式を採用した。

クワドラ

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by vadiacao | 2010-10-24 00:39 | カポル語道場

『Na roda da capoeira』 11

【訳出済み】 次回のテストは9月5日の勉強会です。リスニングはこれまでのNHKニュースに代わってメストリのDVDを取り上げます。できれば家で予習がてら何度も聞いてきてください。

 長く見えるけど、写真だらけだからね。意味のまとまりも考えて、30ページの「apos o ritual」まで。

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カポエイラは口が食べるすべてのものだ
「カポエイラは口が食べるすべてのものだ」とはメストリ・パスチーニャの言葉だが、当時のカポエイラを取り巻く環境から情報や影響を受けながら成長していく、きわめて人肉食的な感覚の表現でカポエイラを定義したものと解釈できる。
 このフレーズはまたカポエイラと食べ物を関連も表している。教会の教区のフェスタで行われるホーダでは、カポエイリスタたちの多くはカトリックやカンドンブレの聖人やオリシャーの信奉者であったため、特定の日や特定の祭りで食べ物のお供えをした。

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 この伝統のもっとも顕著な例は、メストリ・クリオーがコスミとダミアゥンの日にふるまうカルルだ。クリオはカトリックのカレンダーで定められた9月27日に祝う代わりに、自らのアカデミア(Escola de Capoeira Angola Irmaos Gemeos)の創立日である1月26日にそれを行う。アカデミアにつけられた名前や祭りの開催は、メストリの聖人に対する信仰を表している。その信仰は、彼が自分に双子の兄弟と双子の息子がいることに基づいたものだ。
 宗教的なものだけでなく、ホーダの中で食べ物は参加者の誕生日やその他の重要なイベントでもふるまわれる。たとえばリオのドゥーキ・ジ・カシアスでメストリ・フッソが行っている「Roda livre」ではシュハスコをするのが伝統になっている。サンタ・テレーザのメストリ・ジョゼ・カルロスは、カポエイラとアフリカの食事を関連付けてシシン・ジ・ガリーニャをふるまう
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 バハ・ダ・チジューカのグルーポ・センザーラの「バチザード(腰帯を授与する儀式)」では、招待者たちに果物がふるまわれる。このようにたとえlaicaなお祝い事であっても、宗教的な性格が完全に失われてしまっているわけではない。それはカンドンブレの儀式においても同様で、食べ物は儀礼の後にふるまわれるからだ。

O ritual das rodas
 どのようなスタイルであれカポエイラのホーダはビリンバウの音色で始まり、それに歌が続く。カポエイラ・アンゴラでは、ホーダを始める歌はラダイーニャだ。ラダイーニャが響き渡る間、二人のプレーヤーはビリンバウの足元にしゃがんで、静かに耳を傾ける。歌の内容は、アフリカの神話、伝説的なカポエイラ、聖人やオリシャなど宗教的なテーマから日常的な出来事、警察の抑圧など多岐にわたる。

ladainha

上のようなふるいラダイーニャは通常作者は知られていないか、せいぜい非公式に誰かが作者として名乗り出るかだ。さらに多くの場合、その歌詞も固定したものではなく、様々なヴァリエーションが見られる。厳密には宗教的な歌ではないにもかかわらず、その特徴的なトーンは祈りを連想させる。事実その最後には次のような礼賛のフレーズが続く。「もっとも偉大なのは神だ、私の師匠よ、私に教えてくれた人よ、カポエイラよ」。これらが終わるとしゃがんでいた二人は祈りを捧げて、ジョーゴをはじめる。

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by vadiacao | 2010-09-29 01:29 | カポル語道場

ポル語レッスン雑感

 いま非常勤をしている、ある大学の後期授業が今日から始まりました。ほとんど2ヶ月間におよぶ夏休みをはさんで、多くの学生にとっては当然のことながら前期の学習内容はリセットされてしまっています・・・。毎度のことながら、後期の初日はリハビリから始めることになります。

 ところで先々週、別の大学で集中講義を行いました。4日間で15コマ。15コマというのは通常週1回のペースで前期・5か月かけてこなすコマ数です。私としては語学で集中講義というのも、そんな詰め込みは無理だろうと考えていたのですが、なんと、なんと予測は見事に裏切られました。

 発音練習に『イパネマの娘』を丸暗記して歌い、映画『セントラル・ステーション』や日本移民に関するNHKドキュメンタリーを見て、感想や討論を行いながら、通常の前期・5ヶ月でやる内容と同じ所まで到達しました。ここまででも通常の前期カリキュラムよりも盛りだくさんです。今回はさらに、あらかじめ用意した自己紹介のスキットを丸暗記し、最終日には会話のテストまで行うことができました。

 驚くべきはその成果です。参加者24名、うち1名だけが就職活動の都合で途中不参加になりましたが、他全員が非常に高い理解度に到達できました。全員にポル語のニックネームをつけ、授業中はお互いにその名前で呼び合い、最終日の最後の授業では少しウルウルしてた学生もいたほど一体感のある4日間になりました。

 今回の集中講義で分かったのは、語学にある程度の詰め込みは非常に有効だということ。4日間で前期の内容以上のものを身につけることができたわけで、もし8日あれば1年分の内容を終えてしまう計算になります。もちろん会話やリスニングについては大したことはできませんが、基本文法に関して言えば、このような集中的なやり方のほうが格段に効果が上がるようです。

 ヴァジアソンでもここ数年ポル語のレッスンを毎週日曜日に行っていますが、ふと考えたのは、この週末のように土日月と休みが続くようなとき、3日間連続で朝から晩までかかってテキスト1冊終えてしまう。その後の週1回のレッスンは、実践的な会話・リスニングを完全にメインにし、必要に応じて文法を確認しながら進めるというスタイル。こういうのもいいかもなと思いました。
 
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by vadiacao | 2010-09-21 01:09 | カポル語道場

『Na roda da capoeira』 10

【訳出済み】 Vadiandoからシロ講習会までずっと日曜日がつぶれてきたので、ポル語勉強会もお休みしていましたが復活します。今回は2回分まとめてアップしています。

 テストの範囲は26ページの最後まで。

 この写真のメストリ・ボカ・ヒーカ凛々しいですね。まだフェイラに売り場を持っていたころでしょう。

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 見方の明瞭な違いからビンバとパスチーニャは、それぞれヘジオナウとアンゴラのシンボルとなった。さらにはそれらの種目に教育的な意味を与えた。カポエイラの学校化は、2人のメストリと彼らの「学校」によって基礎が固められた。そこは若い世代の弟子たちにとって参照される場となった。またそれらの学校は、その伝統を守り続けている2つのスタイルにとっても参照の場となった。バイーアで作り出され、1930年代から40年代に定着したそのモデルは、その後ブラジル中の様々な都市や国外に広まり、ビンバ、パスチーニャの伝統を受け継ぐものとして神聖化された。

 それにもかかわらず現代で主流になったのは、1960年代半ばにブラジル南東部、とくにサンパウロとリオに現れたアンゴラとヘジオナウの混合した形態だった。それに加え、昇級を表す腰帯の利用など、新たな要素も付け加えられた。この新しいスタイルは、カポエイラの中でまだ定着した名称を持っていない。ある人は「コンテンポラリー・カポエイラ」と呼んだり、その他の人は「前衛カポエイラ」と呼んだり、「現在のカポエイラ」「主流のカポエイラ」と呼ぶ人もいる。このスタイルを代表する主なグループはリオのセンザーラ、アバダ、サンパウロのカチヴェイロやコルダゥン・ジ・オウロである。


 このようなメストリやグループごとの多様性にもかかわらず、ホーダの儀礼的側面だけはは共通点として確立されている。宗教性や料理法など、その多様な文化表現を内包しながら。
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by vadiacao | 2010-08-31 23:55 | カポル語道場

『Na roda da capoeira』 9

 【訳出済み】

 テストの範囲は24ページ、下から6行目の「na Bahia」まで。


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 犯罪化の数年後、とくに1920年代以降、カポエイラはブラジル社会に吸収され始めた。そういう社会化の課程が、カポエイラの最初のアカデミーの出現など、多くの変革をもたらすことになる。
 
 カポエイラのアカデミーを最初に作ったのはメストリ・ビンバで、1932年にサルヴァドールのエンジェーニョ・ヴェーリョ・ジ・ブロッタス区に作ったものだった。1937年ごろ彼のアカデミーは政府の正式な認可を受ける。教育・健康局と社会福祉局はそのアカデミーをCentro de Cultura Fisica e Capoeira Regionalという名称で体育教育の学校として登録した。そのスポーツ性と戦闘性を強調した形で。1941年にはメストリ・パスチーニャがCentro Esportivo de Capoeira Angolaのカポエイラ・アンゴラの教えを公認させた最初の人物となった。

メストリたちと様々なスタイル
 カポエイラにはひとつの歴史的な区切れ目がある。1928年にメストリ・ビンバが当時は「luta regional baiana」とよばれていたカポエイラ・ヘジオナウを創出し、伝統的なカポエイラを打ち砕いた。それに対しカポエイラ・アンゴラのメストリたち、とくにメストリ・パスチーニャは、カポエイラ・ヘジオナウの中に取り入れられたほかの格闘技の要素、柔術、バトゥキ、その他のアフリカ系格闘技やダンスの影響に対し、自らの伝統を回復した。

 パスチーニャのもうひとつの目的はカポエイラを社会的に認知させることにあり、カポエイラを「生涯のスポーツ」と呼んでそのスポーツ的な特性を否定しなかった。それでありながらそのアフリカ性にこだわった。それに対しビンバは、黒人文化の影響を否定しなかったものの、カポエイラはブラジル、とくにバイーアで誕生したものだと主張した。

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by vadiacao | 2010-08-31 23:47 | カポル語道場

『Na roda da capoeira』 8

【訳出済み】
 次回の単語テスト範囲は、20ページ下から4行目の「na arte do corpo」までです。

 そろそろ同じような単語が繰り返し登場してきているのを感じませんか。積み重ねあるのみ!頑張ろう!!

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 米国、ヨーロッパが海外のカポエイラ普及の拠点ではあったが、同時に日本、イスラエル、南アフリカ、カナダなどでもカポエイラが広まった。近年は東ヨーロッパ(ポーランド、エストニア、セルヴィア、フィンランド)、ラテンアメリカ(メキシコ、ベネズエラ)、アフリカ(アンゴラ、モザンビーク)などにも広がっている。まるで世界中がカポエイラを学んでいるような分布図になっている。

O aprendizado
 アカデミアで教えられるようになる前、カポエイラは日常のホーダ、フェスタや果し合いのホーダの中で学ばれていた。練習専用の場所というものがなかったため、メストリたちは八百屋や飲み屋の前、広場、自宅の庭などでカポエイラの教えを伝えていた。

 たとえ学校などのような閉ざされた場所で教えられていた場合でさえ、メストリたちの多くは体系立った教え方を持っていたわけではなかった。生徒たちの学び方は、古いメストリたちが「de oitiva」と呼ぶようなやり方で、観察し、体験し、なによりもジョーゴの実践の中で学ぶというやり方だった。

 「oitiva」というのは港で仕事を待っていた者たちがしていたことを呼んだ俗な言い方である。一般的に単発の仕事の求人は、港にたまっている労働者たちに向けて現場の親方が叫びかけるやり方だった。労働者たちは耳を澄まし、注意を払いながら待っていた。そういうあり方は非常にカポエイラ的なものだった。仕事を待っている間ホーダが行われ、そういうところで初心者たちも手ほどきを受けたものだった。

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by vadiacao | 2010-07-04 21:06 | カポル語道場

『Na roda da capoeira』 7

【訳出済み】
 次回の単語テスト範囲は18ページの「A globalizacao da capoeira」から19ページの下から5行目「retornar para o Brasil」まで。
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 カポエイリスタたちが世界に出て行くことになったきっかけのひとつはフォルクローレ・ショーの遠征だった。メンバーの中にはグループから離れ、行き先の地に根を下ろすものもいた。

 メストリ・ジェロン・ヴィエイラのケースもまさにそれだった。Viva Bahiaの一員としてヨーロッパ各地で一連の公演を行った後ロンドンに残り、最終的に1975年公演に訪れたニューヨークに根を下ろした。そこにはアメリカ合衆国におけるカポエイラ普及の先駆者であるロレミウ・マシャードがいた。1979年カポエイラは西海岸にも広がりを見せる。カリフォルニアにメストリ・アコルデオンが行ったことで、北米の両側をカバーすることになった。

 さらに下って1990年メストリ・ジョアン・グランジが米国で最初のアンゴラの道場となるCapoeira Angola Centerをニューヨークのマンハッタンにオープンさせた。1994年にはメストリ・コブラ・マンサがメストリ・ヴァウミールとともにワシントンに(国際カポエイラ・アンゴラ連盟)FICAを設立した。

 ヨーロッパで最初にカポエイラをもたらしたのはおそらくメストリ・ネストール・カポエイラだろう。グルーポ・センザーラで最上位の赤帯を取得したあと世界を旅することを決意し、1971年にロンドンを訪れた。そこであるダンススクールでカポエイラを教え始めた。メストリ・ネストールはブラジルに戻るまでの3年間ヨーロッパ各地を回りカポエイラを広めた。

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by vadiacao | 2010-07-04 21:02 | カポル語道場


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