カポエイラ・ブログ -Roda de Papoeira-


パポエイラとはカポエイラに関するパポ(おしゃべり)のこと。このホーダにはカポエイラに関心のある人なら誰でも参加できます。いちおう管理人としてグンガは久保原が担当してます。Ie~~
by vadiacao
カテゴリ
全体
パポエイラについて
カポエイラ全般
音楽(歌・楽器・CD)
カポエイラの技術
レッスンの感想・提案
ホーダについて
カバッサ栽培日記
カポエイラ探検隊
カポル語道場
イベント情報
ヴァジアソンの練習
サンバ
その他・雑談
以前の記事
リンク
■カポエイラの総合サイト:         「カポエイラ入門」

■カポエイラ・グッズ専門:  「カポエイラ・ショップ     ビリンバウ」

■ビリンバウの専門サイト:
「ビリンバウ入門」



<   2006年 05月 ( 12 )   > この月の画像一覧

カバッサ棚の骨組み

f0036763_13341598.jpg
 今日の午前中に棚の骨組みだけ組みました。まだ未完成ですが、ベランダの手すりにも固定できるので、それなりの強度は確保できるだろうと思います。また状況を見ながら補強を考えています。

 苗のいくつかには、すでに蔓芽が出てきているので、もうしばらくしたら手に誘導してやれそうです。

 苗の数は、植え込みの両側に7つずつと間に6つで、結局20本植えました。順調に行けば棚の天井はかなり大変なことになると思われますが、1年目の実験ですので、とりあえずこれで様子を見てみようと思います。
f0036763_853488.jpg

[PR]
by vadiacao | 2006-05-28 13:54 | カバッサ栽培日記

政岡さん連載⑥ 「ある日の気付き」

 1993年9月ヒューストン駐在を終え、念願であった出身地の関西支社での勤務となりました。総合商社で管理職になっていましたので、仕事、付き合いなど忙しい毎日の明け暮れでした。仕事での付き合いのゴルフコンペが多くあり、コンペに勝つために暇があればゴルフ練習場で球を打っていました。昔カポエィラで鍛えていた体力にかまけ球を打ち続けていたために、1996年には椎間板ヘルニア、いわゆる腰痛になってしまいました。

 話は前後しますが、1995年に阪神大震災に見舞われます。神戸市西区の自宅は幸いに僅かな被害に留まりましたが、生まれ育った故郷が甚大な被害を受けた光景を見て、神戸から離れたくないとの思いが強くなっていきました。このまま総合商社に勤めていけば必ず東京本社もしくは海外への転勤を命ぜられる、何とかこのまま神戸に居たいと思い続けていたところ、勤めていた総合商社が魅力的なリストラ策を打ち出しました。早期退職を前提に2年間の休職を認めるというものでした。1999年8月に総合商社を休職し、大学教員の道を目指して母校神戸大学に研究生として戻り、勉強を開始しました。商社マンから再び学生生活に戻ったわけです。それまで常に先のことばかり考え、あまり過去のことを振り返らずにやってきましたが、学生生活に戻り、自然に過去のことを振り返る時間ができました。成功や失敗、人を手助けしたことや迷惑をかけたことなどふと思い出すことが多くなりました。

f0036763_121119.jpg 1977年7-8月 リオで行われた全国大会の翌日に散策した際の写真

 右からハイムンド・カルネイロ(軽量級代表)、カルロス・セナ先生、政岡氏(軽量級代表)、ヘナン・アラウージョ(中量級代表)

f0036763_1422770.jpg


 同上

 左から2人目がメストリ・カルロス・セナ






 2001年4月に満50歳となり、同年5月に総合商社を早期退職しました。その年の9月頃だったと思います、妙だなと気付いたことがありました。日本人の自分がブラジルのバイア州でのカポエィラ選抜大会や更には国内大会に出場できるはずがない、なぜ出場できたのだろうとの疑問です。突然、1977年リオ・デ・ジャネイロでの全国大会前の2日間にわたる激論の声を思い出しました。バイア州選抜チームはリオ・デ・ジャネイロのホテルで宿泊しましたが、そのホテルには全国大会に参加した他州のメストリー達も宿泊し、試合のルールなどについて会議をしていました。最初の夜から激論がありました。怒鳴りあう声は、ホテルの廊下まで響いていました。セナボックスの兄弟子であるハイムンド・カーネイロが廊下に出て聞き耳を立てて中の議論を窺っていました。小生が、『何を議論しているの、ブラジル人は議論好きだな。』と軽口できいたところ、実に厳しい顔で『試合ルールでもめているが、これは決着がつきそうだ。怒声が飛ぶほど激論しているのは、君の出場をめぐってのようだ。』とハイムンドが応えました。

f0036763_158965.jpg
 1977年秋 サルヴァドールで行われたバイーア州カポエイラ大会の上位入賞者、優勝者たちと

 政岡氏はサンパウロに移る直前だったため、この大会には不参加

f0036763_1492939.jpg 次の試合前日の夜は、小生もハイムンドと一緒になって、会議の開かれている部屋の前で聞き耳をたてました。カルロス・セナの大声が聞こえてきます。『ブラジルに柔道、空手、テコンドーなど東洋の格闘技が入ってきた。今、日本にカポエィラを伝えるチャンスがある、なぜマサオカの出場を認めないのか。』これを聞いたときは、嬉しさの反面、日本で教えると義務付けられるのは嫌だなと、感じたことを覚えています。激論は続き、小生だけ部屋に戻りました。暫くするとハイモンドが部屋に戻ってきました。親指を上に立てて、『うまくいったようだ。メストリー(カルロス・セナ)が最後に君の出場を認めないのであれば、バイア州選抜チームは団体戦の参加を取り止めこのままバイアに帰ると主張し、他州のメストリーの反対を押し切った。』と言いました。記憶の底から浮かび上がってきたこの出来事で、これまで何もしてこなかったとの後悔に襲われました。

f0036763_212355.jpg
 上と同じ大会の試合風景

 黒服が主審で、旗で勝敗を合図する。ほかに副審が2人付く。





f0036763_15492.jpg 同時に、1978年のサンパウロでの苦い思い出が蘇りました。前年のバイア州選抜チームの一員として全国大会で団体優勝できましたので、サンパウロでは州代表として全国大会で個人優勝を目指し練習を積み重ねました。アゴスト先生にもこの目的を告げ、道場から推薦で1978年サンパウロ州選抜大会に臨みました。1回戦の相手は、何とこの道場の若手師範でした。変な組み合わせだなと思いながらも、相手は余り実戦が得意でないと知っていましたので、トーナメントで続くあとの試合に余力を残せると内心喜びました。ホダに入る前に相手と座って向かい合っていた時のことです。主審が、ジロジロと小生を見ています。小生はすでに前年のリオ・デ・ジャネイロ全国大会で、彼が最後まで小生の参加に反対をしたメストリーであることに気づいていました。このため、凝視されるのを無視し、顔を背けていました。主審が急に小生に話しかけてきました。いわゆるジリア、俗語で、これに対し小生は差しさわりのない言葉を返したつもりでしたが、主審の表情がサット変わりました。『こいつブラジル日系人ではない、あの日本人だ。』と思ったのでしょう。合図があり、アウでホダに入り試合が始まりました。1分を過ぎた頃、相手のスキに乗じ、アハスタオンで相手を倒しました。二人の副審が小生の勝ちを告げる旗を揚げます。しかし、主審は試合続行を命じます。倒し方が不十分であったのかと思い試合を続けました。相手は興奮して必死になって蹴りこんできます。カポエィラの試合は返し技が有効で、興奮すればおしまいです。こうなっては蹴り倒すのは簡単でしたが、同じ道場の相手なので打撃を与えないよう、倒し技に専念しました。更に、相手をチゾウラで2回倒し、3分間の試合が終了しました。試合は1本勝ちのルールなので実際は3本勝ちだ、毎回副審の旗が揚がっていたので、判定でも問題ないと思いました。二人の副審の旗が、同時に小生の勝ちを告げました。これを見て、主審が勝者の旗を揚げるわけですが、主審は相手の勝利を伝える旗を揚げました。すぐに二人の副審が主審に詰め寄りました。話し合が続くので、小生は体育館の片隅に陣取っていたアゴスト先生の道場の参加者の中に戻り、見守っていました。若い頃の悪い癖で、小生は少しずつ興奮し始めました。アゴスト先生に何であんな判定がくだるのかと抗議をしましたが、何かの手違いで判定が覆るから興奮しないようにと何度もたしなめられました。数分間の話し合いの後、副審がこれはおかしいというジェスチャーをしながら主審から離れていきます。主審は、次の試合を促しました。つまり、判定は覆りませんでした。これを見て、小生は一気に怒りを爆発させてしまいました。この1年何のために激しいトレーニングをしてきたのかとアゴスト先生にまくし立てました。アゴスト先生は、敗者復活戦を含め試合は続くので残るようにとたしなめましたが、その制止を聞かず、次の試合をする選手が座って待機するホダの中に入り込みました。敗者復活戦では勝ち続けても州代表にはなれない、これで終わったとの思いが込み上げてきました。こんなトーナメントはこちらから放棄してやる、文句がある奴は掛かって来いと大声で抗議をし、試合会場を去りました。これは、スポーツマンとしてあるまじき行為です。どんな判定でも従うべきで、いくら若いといっても悪態をつき試合会場で怒鳴るなど許される行為ではありません。悔しさと自己嫌悪で数週間はアゴスト先生の道場に行きませんでした。何とか気を取り直し、アゴスト先生の道場に戻りました。試合会場を去ったことへの非難を覚悟していましたが、暖かく迎えてくれました。

 この主審を長く恨みました。ブラジルに滞在していたときは、道場を探し、目の前で生徒を片端から倒してやろうかと物騒なことも考えました。しかし、今になって思うと、そもそも日本人である外人がブラジル国内大会に出場できるほうがおかしいと考えるようになりました。そうであれば、この主審の判定は不公平なものではなく、むしろ、当然ではなかったかと思うようになりました。穿った見方をすれば、外人が国籍を偽り、国内大会に出場したと思われても仕方のない、むしろ、出場そのものを取り消されても当然のことかもしれません。このように考えるのと、続く試合を放棄して会場をあとにした自分の行為で、アゴスト先生にその後どんなに迷惑をかけたのか、謝りたいと思うようになりました。アゴスト先生も小生のサンパウロ州選抜大会参加に苦労したのではないか、それならば前年に同様のバイア州の選抜大会への参加、更には他の州の反対を押し切り小生の全国大会出場を実現してくれた、カルロス・セナ先生はどれほど大変だったかという思いが募りました。さらに、カルロス・セナ先生には、カポエィラを日本で教えることもなく過ごしてきたことを謝罪したいと思いました。このまま二人に会って謝らないと、死ぬときに自分の人生を振り返り、きっと後悔するだろうなとの思いは日増しに強くなっていきました。しかし、アゴスト先生とは1980年代の半ば、カルロス・セナ先生とは1989年のヒューストン転勤を境に、クリスマス・カードのやり取りもなくなり、連絡の方法が見つかりませんでした。
[PR]
by vadiacao | 2006-05-27 02:02 | その他・雑談

Tribo da Lua がメストリ・ルーア・ハスタとCDを発表!

 また日本のカポエイラの新たなページが開かれました。

f0036763_12572521.jpg 


















 マンデラ【Mandela】率いるカポエイラ・グループ、トリボ・ダ・ルーア【Tribo da Lua】が、師匠のメストリ・ルーア・ハスタを招聘した際にCDを制作したんです。先日、大阪で行われたカプー・ジャポンのバチザードでマンデラから直接買いました。

 まずジャケットが美しいです。イベントのTシャツのデザインを手がけたBeija FlorさんとOuroさんの力作です。

 リード・ボーカルは、メストリとマンデラが担当しています。彼らが素晴らしいのはいうまでもないんですが、ちょっと驚いたのは、コーラスがすごくよくまとまっていることです。おそらくメンバーの声の高さなどを考慮して相当リハーサルしたんだろうと思います。このあたりの周到さは、ブラジルで何の計画性もなくCDを録音してしまう人たちに、つめの垢を煎じて飲ませたいところですね!とても美しいハーモニーです。

 歌詞カードも親切で、LadainhaとCorridoの区別、リードの歌詞とコーラスの歌詞がとても分かりやすく書かれています。歌を勉強したい人にはもってこいですよ。

f0036763_1315790.jpg トリボは決して大所帯の団体ではありませんが、その分メンバー同士の結束が強く、一人ひとりの積極的な参加意識と高い実力がうかがえます。そして普段表に出ることはありませんが、マンデラのパートナーであり、グループのお母さん的存在であるアミタさんの支えなしには、今回の果実は決して実を結ばなかっただろうと思います。


 これまで非ブラジル人カポエイラ団体が中心となって制作したCDはいくつか発表されています。イスラエルのカポエイラ・マンジンガの作品や、イタリアのアンゴラ・センターの作品など、いずれもブラジルで発表されるものと比べても勝るとも劣らない仕上がりになっています。今回のマンデラたちの努力も本場ブラジルできっと高く評価されるでしょう。

 Para bens meu irmao Mandela e os camaradas da Tribo da Lua!!

 CDに関する問い合わせは、直接トリボ・ダ・ルーアにお問い合わせください。
 
[PR]
by vadiacao | 2006-05-24 13:23 | 音楽(歌・楽器・CD)

Malicia: ブラジル vs 中国

 今日はネットで発見した2つの恐るべき映像を紹介しましょう。

 カポエイリスタのみならずブラジル人にはマリーシア【malicia】があるとよく言われますね。このブログでも以前に取り上げたことがありました。→「名古屋の4Mとカポエイラの4M」

f0036763_19272168.jpg ブラジル・サッカーの強さの秘密も、ジンガとマリーシアにあると分析されたりします。そこでブラジル・サッカーを愛する青年をセルジオ追ったドキュメンタリー「nike soccer 」を見てください。こういう国からカポエイラも生まれてくると思うと、こりゃかなわないわ、という気にさせられます。


f0036763_19263312.jpg
 そのあとで「Extreme Freestyle Soccer Skills」(究極のフリースタイル・サッカー・テクニック)と題された中国の映像を見ると、ブラジル人の血が流れていなくても練習でここまでいけるのか、と安心?させられます。



 もちろんカポエイラにおけるマリーシアというのは、運動能力だけじゃありませんし、むしろ運動能力の欠如をカバーする側面さえ持ち合わせているものですが、やはり高い身体能力がいわゆるフェイントやトリッキーな動きの助けになることもまた確かなことですからね。体の動くうちは、もっともっとトレーニングしなくてはとあらためて感じました。
[PR]
by vadiacao | 2006-05-22 19:40 | カポエイラの技術

ようやく定植しました

f0036763_23281648.jpg
 ここ数日ずっと雨続きだったので、今日の午前中の晴れ間にようやく定植しました。隣りどおし1m間隔で7本を2列、計14本の苗を定植しました。成長の良いものから選んだので、残りは予備として、引き続き育苗ポットで育てます。

 土は花壇の土に培養土と石灰を混ぜて作っておきました。

f0036763_23302734.jpg
 当初はほっちゃんの実家の畑に植えさせてもらうはずだったんですが、よくよく観察してみたら日照時間が午後1時くらいまでしかなく、2時過ぎには日陰になってしまうことに気付きました。そこで急遽、マンションの大家さんと交渉し、花壇の植え込みの間に植えさせてもらえることができるようになりました。ちょうどうちは1階なので、自分のベランダの下に植えることができます。

 今日は午後から風がとても強く吹き始めたので、念のために割り箸を茎にそって刺し、軽く縛って固定しました。


f0036763_23203746.jpg
 また先日の吉田さんのアドバイスに従って、話を聞いた日に、泣く泣く間引きをしました。それまで今か今かと芽が出るのを待ち続けたものを、ちょん切ってしまうなんて・・・。本葉もけっこう茂って見えていたものも、間引くとさすがにスカスカになりました。下の写真は間引き後。

f0036763_2321015.jpg

[PR]
by vadiacao | 2006-05-20 23:35 | カバッサ栽培日記

政岡さん連載⑤ 「帰国とカポエィラとの離別」

 延長してもらった研修期間も終え、1979年2月にサンパウロから東京へと帰国しました。

 カポエィラについては、いろいろ複雑な思いがありました。一方、ジェツリオ・バルガス経営大学院は必要な単位取得、総合判定試験などを終えていましたが修士論文の提出が残っていました。それから1年半以上をかけ、1980年11月に修士論文を完成し1981年5月の審査でジェツリオ・バルガス経営大学院を修了します。総合商社での仕事が忙しく、何度も修士論文の執筆を断念しかけましたが、何とか修士論文を完成させることができたのはブラジル時代のカポエィラでの鍛錬のお陰とまたカポエィラの練習を日常生活のなかにうまく組み入れたためであったと思います。ブラジルでのジェツリオ・バルガス経営大学院では、毎日ニワトリが鳴くのが先か、ベッドで寝入るのが先かという睡眠時間を極端に切り詰めた生活が続きました。これを何とか乗り越えられたのは、昼休みや夕方を利用してのカポエィラの練習でした。いわゆる知的作業の疲れは運動で解消できる、また極端な睡眠不足も運動することによる快適な疲れで睡眠の長さではなく深さで解消できると実感できました。

 日本に帰国してからも、勤務先で何とか午後7時~7時半に仕事を終わらせ、新宿に開店したスポーツ・クラブへ駆け込み、午後8時~10時までトレーニングをし、独身寮へ帰り夕食をとり午後11時半から午前2~4時頃まで修士論文を書くという生活が続けられたのは、カポエィラのお陰であったと思います。このスポーツ・クラブは、午後7時50分から10時までの格安の限定使用の会員券を発行していましたので、仕事が早く片付く限り土日を含めほぼ毎日のように通いました。

 このスポーツ・クラブの大きな体操場の隅には筋肉トレーニング用の器具が置かれ、そこにサンド・バッグが吊るされていました。ジェツリオ・バルガス経営大学院への修士論文も片付き、より時間をかけてスポーツ・クラブでジンガや防御技をしながらサンド・バッグを蹴ってトレーニングをしていました。1982年の頃だと思います、一目で格闘家と分かる体格の良い人が話しかけてきました。本職は歯科医ながら、有名な実戦空手流派の有段者で、神奈川県警の空手師範の肩書きのある名刺をもらいました。『最初踊りかなと思ってみていたが、サンド・バッグの蹴り方をみると格闘技ですね。それは一体、何ですか。』との質問に対し、カポエィラの説明をしました。『マニアックな格闘技にあこがれる若者が多いので、道場を開けば、沢山人が集まりますよ。道場破りに来るような者がいても、自分の流派にはこういった連中を好んで相手する若者がいるので安心してください。よければ手伝います。』と勧めてくれました。この勧めに少し迷いましたが、総合商社での仕事の忙しさを理由に丁重にお断りしました。お金を取る以上責任をもって時間を割いて教える必要があります。こういったこと以外に、他の格闘技の強さに頼りたくないという思いがありました。鍛錬を続けていけば更に強くなれると考えていました。

 しかし、現実は甘くありません。いつかは、カポエィラ道場を開こうとの気持ちだけで、思い切りの悪さから時間のみが経っていきます。仕事でお酒を飲み、麻雀をする機会が増え、さらに友人の勧めで始めたスキューバ・ダイビングにのめり込み、少しずつカポエィラの練習が減っていきました。結婚をし、仕事は更に忙しくなり、いつしか新宿のスポーツ・クラブにもそれほど足を運ばなくなっていきました。1985年頃には一切カポエィラの練習を止めたと思っていましたが、先日机の引き出しから鍵を見つけました。何の鍵かと必死になって思い出したところ、東京時代の住まいであった下落合の近くの神社にあった道場の鍵であることを思い出しました。この道場では、若い空手家が空手を教えていましたが、自由な時間にカポエィラの練習をしたいからと頼み、合鍵をつくらせてもらったものです。  

 1989年2月に総合商社からヒューストンへ駐在員として赴任しますが、それまで細々とカポエィラの練習は続けていたようです。しかし、加齢と体重増加に加え鍛錬が出来ていませんので、見るも無残な動きしかできなくなっていました。一度『昔はカポエィラというのをやっていたんだから』と家内に振る舞いをみせましたが、『まるで豚が踊っているよう』とからかわれるようになっていました。ヒューストンでは、更に太りコレストロール値が310を越え、医者から強く体重の減量のために運動を勧められ、ゴルフを始めました。日本とは比較にならないくらい安くゴルフができましたので、ゴルフにどんどんのめり込んでいき、カポエィラとはまったく縁のない生活になりました。
[PR]
by vadiacao | 2006-05-17 12:58 | その他・雑談

養老のひょうたん専門家に突撃インタビュー

f0036763_12384278.jpg 養老の滝でおなじみの岐阜県養老郡でひょうたんを栽培している吉田商店の店主・吉田雄一さん(左写真)に電話を掛けて、定植以降のアドヴァイスをいろいろうかがいました。全く突然の見ず知らずの者からの電話にもかかわらず、親切に教えていただき本当にありがとうございました。

 以下、教えていただいた内容を箇条書きでまとめておきます。ブラジルひょうたんにそのまま当てはまるかどうかは未知ですが、つきさんたちのノウハウと合わせて参考にさせていただこうと思います。

1.植え替えるときには育苗ポットの土を崩してはいけない。葉っぱも大きくデリケートなので、ポットから慎重に出してそのまま植え替える。

2.育苗ポットで育てるときは、必ず1つに1本。そうでないとケンカして、細いまま上に伸びていこうとするから、成功しない。

3.土は冬のうちから牛糞などをすきこんで作っておくが、これから植え替えるならば市販の培養土などを混ぜればよい。石灰も少々まぜる。ただしそんなに神経質にならなくても育つ。

4.風邪には弱いので、親づるが伸びて支柱に巻きはじめるまでは、強い風に当たらないように気をつける。

5.苗の間隔は1mくらい取ったほうがいい。想像以上につるが伸びる。

6.水はほとんどやらなくてもいい。自分の場合は、真夏の全く雨が降らないときしかやらない。多くの人が水のやりすぎで、かえって腐らせてしまう。

7.自分は畑で土を作っているので肥料もほとんどやらないが、そうでない場合は化成肥料をあげたほうがいい。窒素・リン酸・カリの3要素のバランスの良いものをえらぶ。雨の日の前に、苗の根元にやる。

8.消毒は徹底的に。食用ではないので、倍率も濃い目に。虫対策にはスミチオンとかマラソン、病気対策にはダイセンという薬を使う。自分のところは、すでにウリハムシが来ているので、防虫用のネットをかぶせている。

9.棚の強度はしっかり。乾燥する前の実は水分がどんどんたまるので、かなり重くなる。

10.実は棚の上で生らすようにする。親づるが棚の天井に届くまでは、脇芽を摘んでしまう。そうでないとそこから子づるが出て、途中にも実が生ってしまう。

11.親づるが天井に届いて、子づるが3本ほど出てきたら、親づるを切ってしまう。

12.7月くらいから実が生り始めて、8月いっぱいで成長が止まり枯れ始める。実が硬くないうちは収穫してはいけない。

13.実をあまり多くつけさせるのもよくない。成長を見ながら、大きくならないもの、形のよくないものは摘んでしまう。

14.今年はなかなか気温が上がらないので、芽の出はよくない。これからぐんと上がらなければ、例年並みの収穫は厳しいだろう。

f0036763_1239347.jpg
吉田商店
〒503-1254
岐阜県養老郡養老町養老公園1283
TEL:0584-32-0404


※吉田さんのお写真は、「ひょうたん展覧会」のサイトから転載させていただきました。


 最後に吉田さんは、「また分からないことがあれば連絡ください」とまでおっしゃってくださいました。またお世話になると思いますが、今後ともよろしくお願いします。本日は本当にありがとうございました。

                                      カポエイラ・ヴァジアソン
                                               久保原
[PR]
by vadiacao | 2006-05-15 12:55 | カバッサ栽培日記

ヴァジアソン・メンバーのカバッサ近況

 今年カバッサ栽培に挑戦している仲間の近況です。まだ他にもいるんですが、また時々写真送ってください。

f0036763_21595864.jpg


ちゃんと育つかなあ…
かなり放置プレイなんですけど…
今は葉っぱがもう少し大きくなってます☆
 by キコっち


f0036763_2201551.jpg



私のカバッサちゃんたち。
本当にかわいい!
 by モランゴ



f0036763_2202781.jpg
ウチのカバッサの様子です。
夜になってフラッシュで撮ったものです。
ウチの場合、7つ植えて芽がでたのが3つ、1つは双葉が既に腐っていたので間引きして2つだけです。
 by パラフーゾ

[PR]
by vadiacao | 2006-05-13 22:11 | カバッサ栽培日記

政岡さん連載④ 「サルバドールとサンパウロの当時の情景」

①サルバドールでのカポエィラ


f0036763_827545.jpg

 サルヴァドールのカーニバル

 トリオ・エレトリコで盛り上がる市の中心部

 1977年2月 政岡氏撮影


 
 カポエィラを学び始めたことはヘジナを通じ、下宿の老夫婦にもすぐに伝えられました。ヘジナのお母さんとドナ・マリカスには親交があったためです。ドナ・マリカスから『格闘技が好きならば、なぜ空手や柔道をやらないの。よりによってカポエィラなんて選んで』と言われました。ドナ・マリカスは、サルバドール滞在中母のように接してくれ、亡くなった今も懐かしく思い出される人ですが、昔の白人の態度そのままで黒人や混血をあまりよく思っていませんでした。当人によれば、『自分は肌の色で差別しているのではない。ただ黒人の多くは無教養で、態度が粗野なため好きではない。』と意見をいっていました。

f0036763_8343414.jpg

 サルヴァドール郊外の村での水場の風景

 1977年 政岡氏撮影






 当時、サルバドールの格闘技系道場で、一番月謝が高かったのはカリベー先生の空手道場、二番目がカルロス・セナと親交のあった日本人の吉田先生の柔道場、次に韓国人の先生のテコンドー道場やボクシング・ジム、そして最も月謝が安いのがセナボックスを含むカポエイラの道場でした。メストリー・ビンバの時代には、ナショナリズムの高揚から上流の白人家庭の子弟が多く学んだ時代もありましたが、小生がサルバドールで学んだ1970年代半ばは昔のごとくカポエィラは貧しい黒人、混血が学ぶ格闘技となっていました。また、サルバドールでは女性のカポエリスタはまず見かけませんでした。

f0036763_8242141.jpg

 会社の上司のお嬢さんと友人を連れ、サルヴァドールのレストランBarraventoで

 1976年 政岡氏撮影





 また、現在カポエィラを学んでいる皆さんには、奇妙に聞こえるかもしれませんが、カルロス・セナは、音楽はカポエィラに後で加わったものであり、本質的なものでないと考えていました。セナボックスでは、時折、メストリー・ジガンチというビリンバウの素晴らしい弾き手を迎えてビリンバウのさまざまなテンポに合わせホダを演じる以外、練習で殆ど唄や楽器は使いませんでした。

 昇段の際にも、唄や楽器を演奏する力は考慮されませんでした。理由のひとつは、サルバドールにはビリンバウやその他楽器の引き手は多数おり、子供を含め楽器の引き手には困らなかったからだと思います。

f0036763_8372193.jpg

 イタパリカ島へ向かう船上で

 ビリンバウを弾くバイアーノ(カポエイリスタではない)

 1976年 政岡氏撮影




 しかし、カポエィラを学ぶ上でリズムとテンポが無視されたわけではありません。カルロス・セナは、耳から聴くリズムに反応するのではなく、相手の動きをみて自ら作り上げた内面のリズムで反応すべきだという考えを持っていました。この考え通り、セナボックスの練習では、蹴り技や防御技だけでなく、準備体操や、腕立て、腹筋そして筋肉トレーニングなど全ての動きをリズミカルにするよう指導していました。熟練者にいくほど全てのトレーニングは早く、テンポよくすることが要求され、時折、逆に、蹴り技や防御技を可能な限り滑らかにゆっくりやるなどの指導が行われました。


② サンパウロでのカポエイラ

 1977年の10月頃、小生はサルバドールからサンパウロに移ります。サンパウロに移ったのは、運良くジェツリオ・バルガス経営大学院に合格したためです。小生は父親が13歳の時に他界したため、高校を出てすぐに働くような状況でしたが、母親と兄達のお陰で一浪のあと、当時は月謝が安かった(月1000円、年12000円)国立大学に合格できたので大学進学ができた次第です。大学卒業後は当たり前のように働き始めました。このため、大学院での勉学など夢のようなことでした。

 ジェツリオ・バルガス経営大学院は、南米で最高のMBAのひとつとして有名でしたので、もしも入学試験に合格すれば勤めていた総合商社は派遣期間を延長してくれることになっていました。大学院での勉学もさることながら、ブラジルにできるだけ長く滞在し、カポエィラを学び続けたいとの気持ちがありました。 

 サンパウロではカルロス・セナの紹介でアゴスト先生の道場でカポエィラを続けました。
サンパウロでのカポエィラの雰囲気は、サルバドールと異なっていました。女性がいたことです。日曜日になると子供たちも学んでいました。サルバドールでは子供がカポエィラをする姿を見ていましたが、女性はほぼカポエィラをするのを見た記憶がありませんでした。これはやはり経済的な発展の差であると思います。サンパウロは、サルバドールに比べるとはるかに都会で、経済的発展により、いわゆる中産階級が多くいました。現在の日本では女性があらゆる分野で就業し、スポーツを楽しむのは当たり前です。同様に、経済的に発展したサンパウロでは、多くの女性がカポエィラを楽しむようになっていました。
 
 サルバドールのセナボックスでのカポエイラ・ヘイジョナルは、相手を倒すという格闘性を重視したものでしたが、サンパウロでは女性の生徒がいることもあり、楽しむ要素が求められていました。このためにサンパウロの道場では大半一人で練習をし、時折アゴスト先生と実戦的なジョゴ(試合)をしました。
[PR]
by vadiacao | 2006-05-11 08:39 | その他・雑談

メストリ・ペレ講習会の写真

 5月7日(日)にサンパウロで行われたメストリ・ペレのサンバ講習会の写真が何枚か届きました。

 時差の関係もあって、つい数時間前にサンパウロで行われていたイベントの報告がもうここでできてしまいます!

 うらやまし~、すぐ飛んで行きたいです!

f0036763_16445578.jpg
メストリ・ペレと講習会を主催したメストリ・ブラジリア

2人は60年代にメストリ・カンジキーニャのショーで何度も共演したことがあるそうです。


f0036763_1705179.jpg アタバキの左隣はメストリ・ブラジリア、その左側はメストリ・アウシーデス(黒いジャンパー)、その左はメストリ・ブラジリアの弟子で世界的マラバリスタのマルセロ。メストリ・ペレの向こう側はセノウリーニャ(サンパウロの若手アンゴレイロです)


f0036763_1647620.jpg

 踊るメストリ・ペレ

 今にもあの図太い声が聞こえてくる気がします。


f0036763_16471795.jpg

 メストリ・ペレと私のブラジル修行時代の仲間たち。

 左から、ムケッカを作らしたら最高のマリオ・ジェーニオ、当時のトレーニング・パートナー兼悪友のマウロ、ビリンバウの師匠チーオ・ジョアン
[PR]
by vadiacao | 2006-05-08 17:02 | その他・雑談


最新の記事
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧