カポエイラ・ブログ -Roda de Papoeira-


パポエイラとはカポエイラに関するパポ(おしゃべり)のこと。このホーダにはカポエイラに関心のある人なら誰でも参加できます。いちおう管理人としてグンガは久保原が担当してます。Ie~~
by vadiacao
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天界の様子

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 最近の長雨で蔓の伸びが加速しています。毎日30センチ位ずつ伸びているので、じっと見つめていれば伸びる様子が分かるんじゃないかと思うほどです。

 20本中15本くらいが天界に到達しています。一方で、まだこれから棒に絡みつくようなのもあります。
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 ご覧のように天界もにぎやかになってきました。天井に届くまでは、脇芽を全部摘み取ってきましたが、届いてからは自由にしてあります。別に大物を狙うわけでもないので、ここからは自然に生るだけ生らせてみようと思っています。

 こういう蔓の類が縦横無尽にうっそうと茂る様子は、私は好きですね。
 
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 つぼみもたくさん出てきました。

 鉄の網は、雨に打たれたら一日でまっ茶色になってしまいました。
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by vadiacao | 2006-06-27 13:31 | カバッサ栽培日記

『メストリ・ジョアン・ピケーノ カポエイラに捧げた人生』 ②

ジョアン・ピケーノ・ジ・パスチーニャ
田舎での幼少期と都会生活

 1933年にわしらはセヒーニャ(Serrinha)からアラゴイーニャス(Alagoinhas)に出てきた。すでに父は一番上の兄とそこで待っておった。あのころは旱魃がひどくて、みんな南に下っていったのじゃ。

 わしらは「シチオ・ノーヴォ」に向かうグループに加わった。父が先に着いていて、あとから家族全員を呼び寄せることになった。

 1年後、わしらはマタ・ジ・サン・ジョアン(Mata de São João)に移り、そこには10年くらいいたかのう。

 家族みんなで移り住み、年月が流れていった・・・。

 マタ・ジ・サン・ジョアンで暮らした10年間、わしはサトウキビ農園で働いた。シセロ・ダンタスさんの農園で牛を呼び集めるのがわしの仕事じゃった。

 今日ではその場所はJK移住地として知られている。

 その後は牛車の先導もした。牛を運ぶ車の上に乗っておったよ。

 あのころまではいつも父について彼の仕事を手伝っておった。それがわしの義務でもあったからのう。ちょうどそのころ、わしは体を強くしたいという願望を持っておった。ただ、どのスポーツを始めたらいいものか迷っていたのじゃ。まだカポエイラのことも知らなかった。

 わしとしては軍隊に入ろうかとも考えた。軍隊では厳しい訓練をすると聞いていたからじゃ。ただ両親が反対したので入隊はしなかった。兵隊になると親を憎まなくてはならなくなると聞かされていたのじゃ。

 サン・ペドロの農園にいた時分、メストリ・ジュヴェンソ(Mestre Juvenço)に出会った。彼はカポエイリスタで、鍛冶屋として働いておった。彼はビゾウロ(Besouro)の友人でもあったので、ビゾウロの武勇伝をいろいろ聞かされたものじゃよ。このジュヴェンソがわしにとって最初のカポエイラの先生じゃった。

 25歳か26歳になったころ、一番上の兄が結婚した。そのときに家族の中で話し合いがあって、父と母はおまえもそろそろ独立してもいいだろうと言ってくれた。

 そこでサルヴァドール(Salvador)に出てきて、今日まで暮らしている。あれは1943年の1月ごろじゃったな。

 最初にサルヴァドールに着いたときは、クルヴァ・グランジ・ド・ガルシア(Curva Grande do Garcia)に住んだ。その後、ヴィラ・アメリカに移り、ダムの近くに小さな家を作った。ダムの建設に伴う立ち退きで補償金をもらい、67年にはソブラジーニョ(Sobradinho)に土地を買った。ちょうど4チャンネルのテレビ局の前あたりで、今は町になっておるが、あの当時はとても危険な地域じゃった。

 市電の料金徴収の仕事をしようと試験を受けてみたのもそんなころじゃ。いちおう合格はしたのじゃが、あまりにも危険な仕事なのでやめることにした。あのころの電車の中といったら、ステップまで人でいっぱいで、集金係は乗客の後ろを通らねばならなかった。なんど支柱にぶつかりそうになったことか。実際にぶつかって死んだ者もおったよ。

 結局この仕事もすぐやめた。父が田舎から出てきて、そんなところで働くのはやめたほうが良いと忠告を受けたのじゃ。

 次は土方の手伝いをした。そのころ一緒に働いていた友人に連れられて、カポエイラのホーダに行ったことがあったのう。

 土方の仕事は結構続いて、それなりに熟練した。最終的には現場の監督も務めておった。

 わしが子供の頃、父親はわしのことを「博士」と呼んだものじゃ。「博士」などというあだ名を付けておいて、実際には学校にも入れてくれなかったがの。だから本当は学者でもなんでもない。ただしカポエイラの中では「博士」じゃよ。

<つづく>

(訳者注)改行が非常に多いですが、ポル語の原文に忠実に改行しています。「聞き書き」という形態の性質上、急に話題が変わったりする部分もあります。
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by vadiacao | 2006-06-27 00:15 | カポエイラ全般

『メストリ・ジョアン・ピケーノ カポエイラに捧げた人生』 

f0036763_1636391.jpg 以前、「翻訳の行方」という記事でこのブログでも紹介しましたが、メストリ・ジョアン・ピケーノが自らの生い立ちを語っている『Mestre Joao Pequeno - Uma vida de capoeira』という本の日本語版出版計画がありました。この本の編者ルイス・ノルマーニャ氏とは、電話とメールで打ち合わせを重ねてきて、私の翻訳もすでに1年以上前に送付してあるんですが、その後一向に進みません。最近では連絡も途絶えてしまっている状況です。

 そこで本書の日本語訳を、このブログで公開することにします。本来この企画の第1の目的は、メストリを財政的に支援することでした。私の仕事は完全なボランティアで、売上はすべてメストリ・ジョアン・ピケーノに送ることになっていました。その意味では、このブログで無料で公開してしまうことで、メストリにお金を送るという支援はできなくなってしまいます。しかし私としては、このまま企画倒れにしてしまうよりは、メストリも高齢ですし、その生き様をより多くの人に知ってもらうことで、間接的な支援につながればと考えています。例えば、この翻訳がきっかけで、ジョアン・ピケーノのアカデミアに行く人が増えたり、その弟子のところの生徒が増えたりという形でですね。

 ちなみに日本では、大阪のCHOCOさんのグループと東京のIUNAさんのグループがジョアン・ピケーノの系列に属しています。とはいえサルヴァドールに滞在したことのあるカポエイリスタで、サント・アントニオ要塞にあるジョアン・ピケーノのホーダに行ったことのない人はいないでしょう。多くの人が直接的間接的に教えを受けているんですね。

  メストリ・ジョアン・ピケーノは、2003年12月18日ミナス・ジェライス州のウベランジャ連邦大学から名誉博士号(doutor honoris causa)を授与されています。1996年にメストリ・ビンバがバイーア連邦大学から(没後授与)、メストリ・ジョアン・グランジが米国ニュージャージー州のアプサラ大学から授与されたのに続き、カポエイラのメストリとしては3人目になります。日本で人間国宝や名誉教授ともなれば、さまざまな講演に招待されたり、テレビに出演したりして、まず生活に困ることは無いでしょうが、ブラジルでは何の足しにもなりません。人生のほとんどをカポエイラに捧げてきた偉大なメストリも、日々のパンに困っているのが現実です。

 どなたか、今からでもこの企画をもっと有効に活かせるようなアイデアをお持ちの方は久保原までご連絡ください。いずれにしてもルイスに再度コンタクトをとる必要は出てくるでしょうが・・・。


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目次

01:まえがき

04:ジョアン・ピケーノ・ジ・パスチーニャ
田舎での幼少期と都会生活

06:カポエイラ、メストリ・パスチーニャとの出会い

11:メストリ・パスチーニャの道場

13:ジョアン・ピケーノとその指導法

15:練習の手順

17:マンジンガとカポエイラにおける欺きについて

23:ビリンバウ、ラダイーニャ、コヒード

27:カポエイラで用いられる楽器

29:カポエイラの起源

31:カポエイラの美しさと護身術としての利用

32:カポエイラに対する抑圧、偏見、そして躍進

33:メストリ・ジョアン・ピケーノの信仰心

37:カポエイラ、スポーツ、競争

39:カポエイラにおける攻撃性

40:世代から世代へ、より良きものを求めて

41:人生の経験

42:いいカポエイリスタと悪いカポエイリスタ

43:メストリ・ジョアン・ピケーノの豊かなカポエイラ世界

48: 訳者あとがき



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まえがき
 この本は私が個人的に出費した自費出版物である。印刷、装丁はジョゼ・アメリコ・ジ・リマが担当した。本書出版に向けて協力を惜しまず叱咤激励してくれたモニカ(オンサ・ブランカ)とエジヴァウド・ボルジス・クルス(メストリ・ルーア・ジ・ボボ)に感謝を捧げたい。UNESP(サンパウロ州立大学)リオ・クラーロ校の生徒たちからも貴重な提案、批判をいただいた。本書はジョアン・ピケーノの一人の生徒がメストリと話をしながらまとめた「聞き書き」であり、私はそれを編集したに過ぎない。

 メストリ・ジョアン・ピケーノは、自らの人生をつづった本書の出版をとても心待ちにしていた。私は、これまでにカポエイラ・ヘジオナウ、アンゴラのほかのメストリについたこともあるが、最終的にメストリ・ジョアン・ピケーノを師匠として選んだ。

 本書を出版できたことは私にとっても大きな幸せである。私の希望は他でもない、本書の売り上げがメストリへの協力金という形で全額メストリの手に渡ることだ。自費出版の形式をとることで、版権、流通、販売をメストリのコントロール下におくことができ、増刷などの注文にもメストリ自身が直接対応できるようになる。そのため中間的な業者をいっさい排する事にした。読者の方々にお願いしたいのは、本書を欲しいという人がいる場合にはコピーなどをとらず、ぜひメストリから直接購入していただきたいということだ。メストリの不在時にはマイジーニャ夫人が対応してくれるだろう。

 メストリ・ジョアン・ピケーノは1917年12月27日にバイーア州アラシに生まれ、隣接するセヒーニャ市で洗礼を受けた。父マシミニアーノ・ペレイラ・ドス・サントスと母マリア・クレメンサ・ジ・ジェジュスには9人の子供がいる。マルチンス、ルイーザ、セシリア、ジャコー、クレト、マリア・ジョゼ、アントニア、グラシリアノ、ニシンで、ジャコーとニシンはすでに亡くなっている。

 牛飼いだった父はケイマーダス地方のヴァルジェン・ド・カント農園で働いていた。祖父はアラシに土地を持っていた。ジョアン・ピケーノが15歳になるまでは、ケイマーダスからバホッカのあたりで暮らしていた。バホッカには、洗礼親のアンジェロ・ヴァウヴェルジがいた。

 1932年、ジョアン・ピケーノが15歳になったころから周囲の生活が変わり始める。33年に父がアラゴイーニャスに移り、家族もそれについて行く。ここから先はメストリ自身の口から語ってもらったほうがいいだろう。したがって本書ではあえて「聞き書き」にあるとおり口語調の文体でまとめた。

2000年7月 サンパウロ
ルイス・アウグスト・ノルマーニャ・リマ
Luiz Augusto Normanha Lima
サンパウロ州立大学教員-リオ・クラーロ

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by vadiacao | 2006-06-22 16:37 | カポエイラ全般

天井を設置しました

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 明日にでも天井に届きそうなやつが出てきたので、今日は朝一番から天井を作りました。ホームセンターに売っている、工事現場で使うような鉄の網を試験的に利用することにしました。けっこう丈夫なので、カバッサの重みにも耐えられると思います。むしろ支柱のほうが頼りないんですね。台風のときなどは補強が必要になってくるでしょう。

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 今日見たら根から枯れているものがありました。つい昨日くらいまでは元気だったんですが、根元が腐って、茎の途中が裂けている部分があったので、何かの病気かもしれません。

 そういえば先週末のストリート・ホーダに山梨県から参加してくれた塩島さんによると(彼は農業者です)、これからはベト病などが流行ってくるというで、これにはジマン・ダイセンがよく効くとのことでした。こういう殺菌剤は雨の前に散布しなくてはならないらしいです。素人考えでは、雨で全部流れちゃうんじゃないかと考えますが、逆に病原菌が雨で広がってしまってからでは撒いても遅いということです。雨が降る前に菌を殺しておかなければならないということでした。

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by vadiacao | 2006-06-19 12:41 | カバッサ栽培日記

カポエイラ探検隊2006の隊員募集!

 この秋、たぶん10月の第2週くらいからになると思いますが、カポエイラ探検隊2006と題して、カポエイラのちょっとしたスタディ・ツアーのようなものを行う予定です。隊長は私、久保原が務めます。現在、隊員募集中ですので、以下の説明を読んでぜひ参加したいという方はご連絡ください。現地ではかなりアクティブに動きますので、定員は私以外に5人くらいまでと考えています。

 この探検隊の最大のメリットは、個人で行った場合なかなかコンタクトが難しい古いメストリたちやさまざまなグループと交流が図れるということです。ここではブラジル中に張り巡らされた隊長のコネクションをフルに活用します。近年、ブラジルの本部団体に修行に出かける人が増えてきていますが、限られた時間やポルトガル語の問題もあって、なかなか自由に動くのは難しいですよね。そもそもどこにどういうメストリたちがいて、どういう経歴の持ち主かなどというのも、よほど調べないと分からないと思います。もちろん自分たちのメストリと練習するのは基本中の基本ですが、せっかくカポエイラの本場まではるばる行っているわけですから、さまざまなメストリたちの話に耳を傾け、いろんなスタイルのカポエイリスタとジョーゴをしてみるというのは、その後のカポエイラ人生にとってかけがえのない肥やしになるはずです。日本という「井戸」を出て、ブラジルという「大海」に乗り込んだはずが、ブラジルの中の「井戸」に再び納まってしまうのはもったいないと思いませんか?地域的にもメストリによっても非常に多様性に満ちたカポエイラという大海原を漂流してみようというのが、この探検隊の最大の目的です。

 とりあえず探検隊の活動地としては、サンパウロ、リオ・デ・ジャネイロ、バイーア(サルヴァドール、イタパリカ島、サント・アマロなど)を予定しています。活動期間は2週間くらいになると思います。私個人としては、1ヶ月ほどブラジルに滞在するつもりですが、探検活動は前半の2週間くらいになる予定です。ですから上の活動地すべてを回ることは難しいと思いますが、具体的にどこで何をするかは現在調整中です。決まり次第お知らせしますね。また探検には付き物なんですが、「今週末あそこでこんなイベントがあるよ」などという情報が、現地に行くと常に飛び込んできます。そんなときは隊員と話し合って、随時予定を変更します。面白そうなものには、すぐ飛びつきます!

 コスト的にも、可能な限りリーズナブルに抑えるつもりです。宿泊先もサンパウロであればリベルダージの日系団体の施設、サルヴァドールではユースなど、これまで私が個人的に利用してきた安宿を利用します。もちろんリッチな気分を味わいたい隊員は、それなりのホテルに泊まって、翌朝待ち合わせすることも可能です。食べるほうも、路上のホットドッグから、おいしい大衆レストラン、ゴージャスなシュハスコ・レストランまで、こっちのほうはメリハリを付けて、これまた穴場をいろいろ紹介します。

 最後にちょっと探検隊のからくりを説明しておきますと、隊長の会社(カポ企画といいます。よろしく!)は、旅行代理店の資格を持っていませんので、いわゆるパッケージ・ツアーを販売することはできません。ですから正確に言えば、久保原が隊長として提供するのは現地でのコーディネーターというサービスだけです。ただしスポンサーとの関係上、往復の航空券はこちらでまとめて購入させていただきますし、基本的には全員同じ飛行機でブラジルに行きますので、実質的には他のツアーとさほど変わりません。また細かい規定については、追ってお知らせします。先にお知りになりたいことがある方は、遠慮なくお問い合わせください。liberdade@syd.odn.ne.jp(久保原)

 とりあえず関心をもたれた方はご連絡ください。また特にこういうことがしてみたいという希望のある方は提案をお寄せください。差し当たって先着順で定員をきるということはしませんが、隊員の顔ぶれや関心の所在によって、活動プランを作る参考にしたいと思います。なおもともと隊長ひとりでも行く予定の探検ですので、たとえ隊員が5人に満たないとしても探検自体が中止になることはありません。

 2005年のカポ・ツアーについては、私はまだ全部書いていませんけども、次の記事を参考にしてください。

カポツアー2005 - リオ編
カポツアー2005 - サンパウロ前半編
「ブラジル日記」:参加したヴァジアソンの仲間が書いてます。

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by vadiacao | 2006-06-16 16:42 | その他・雑談

政岡さん、ありがとうございました!

 今回をもって政岡さんの連載は終わりです。8回に及ぶ、濃厚な内容の投稿をありがとうございました。

 最後になりましたが、ここでメストリ・カルロス・セナ【Carlos Sena】について簡単に補足しておきましょう。カルロス・セナは、1931年サルヴァドールに生まれました。49年、18歳のときにメストリ・ビンバのアカデミアでカポエイラを初め、ビンバの最も優れた弟子のひとりとしてみなされるようになります。53年にビンバがヴァルガス大統領の前で行ったヘジオナウのデモンストレーションにも参加しており、後にはビンバのアカデミアのテクニカル・コーチも務めたようです。しかし55年、彼はセナヴォックス【Senavox】と命名した独自のグループを立ち上げます。彼は、当時のバイーアで行われていたフォルクローレ化したカポエイラを批判し、そのスポーツ化に情熱を傾けました。練習のカリキュラムからホーダの進行、競技ルールまで細かく規則化し、グループ内の上下関係や高いモラルを求めました。彼の練り上げた諸規則は、当時の軍政にも評価され、セナはサルヴァドールのエリート・クラブや士官学校でカポエイラを教え始めました。また72年にブラジル・ボクシング協会に採択された「カポエイラ規則集」の草案も手がけています。彼のカポエイラのスタイルは、ヘジオナウでもアンゴラでもないものとして、カポエイラ・エスチリザーダ【capoeira estilizada: 様式化したカポエイラ】と呼ばれていました。

 政岡さんご自身がおっしゃっているように、カルロス・セナの目指したスポーツ競技としてのカポエイラは今日の主流にはなりませんでした。そのもっとも大きな理由は、あまりにも細かい規則でシステム化しようとした意図が、カポエイラの本性たる自由【liberdade】になじまなかったためだと思います。とはいえコルダゥンの原型となったフィッタ、「Salve」の挨拶など、カルロス・セナの影響力の名残は今日まで伝わっています。
 
 より詳しくは、政岡さんが準備されているご著書が刊行されるまでお待ちいただくことにしましょう。私もカルロス・セナについてはほとんど知識がありませんので、とても楽しみにしています。ともあれ私たち日本人カポエイリスタには、すでに30年以上前に政岡さんのような大先輩がいるということ。そして、そういう方からこうした貴重な体験を聞けるというのは素晴らしいことだと思います。また今後とも折りに付けいろいろな意見をお伺いできればと思います。このたびは、超多忙な合間を縫ってご投稿いただき、本当にありがとうございました。

 Salve !
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by vadiacao | 2006-06-16 10:37 | その他・雑談

政岡さん連載⑧ 「最後に」

 2002年11月、カルロス・セナ先生他界の訃報をメストリー・ヨージから受けました。小生にとって、他界の4ヶ月前に再会し、謝罪できたのがせめてもの慰めとなっています。カルロス・セナ先生の逝去に突き動かされるように、当時勤務をしていた山口県の大学で学生に声を掛け、学内で非公式にカポエィラを教え始めました。現在は、勤務をしている地元の芦屋大学でサークルを発足させ、カポエィラを教えています。

 ゴルフを中断し、少しずつ鍛錬をしてきた結果、当初恐れていた腰痛の再発はなく、むしろ腰、背中の調子は良くなってきています。体重も減り、その結果、健康診断での数値も良くなっています。カポエィラのお陰で、体調もよくなってきています。但し、調子に乗ると腰痛再発への恐れも有り、背中を大きく曲げる姿勢をとる動きは控えています。

 昔と違い、固くなった体と弱くなった筋肉の動きは、簡単には回復できません。年齢を考え、サボらずそして無理せず、トレーニングをしていると、少しずつ向上しているのが分かります。これまで、55歳までに昔の50%まで回復することを目指してきました。うまく回復できれば、最近流行の「自分へのごほうび」ということで、ゴルフの再開を考えていました。あと約1ヶ月で55歳になりますが、正直、微妙なところです。昔は、目標を達成するまでは、一度控えると誓いを立てたものは守るという生き方をしてきましたが、50%まで回復できなくともゴルフを再開しようかなという心境になっています。
 
 ここまでお読み頂きありがとう御座います。お気づきのように、皆さんがやっているように楽器演奏や歌も取り入れカポエィラに楽しむという取り組みをしていたならば、カポエィラを教え始めるのももう少し早くやっていたかもしれません。しかし、カルロス・セナ先生のスポーツ格闘技(ルールをもとに安全に配慮の上、試合をして決着をつける)という教えを受け、より強くなることにこだわるなかで、仕事の忙しさや家庭生活でいつしかカポエィラの練習することもなくなり、50歳を越えてしまいました。その後、これまで書いてきたような幸運な出来事の連続で、カポエィラを再開したというのが実態です。久保原さんのバチザードや夏合宿への参加の機会を得て、カポエィラを楽しむという側面を学ぶことができました。先に書いた、50%まで回復しなくともゴルフを再開しようかなというのは、こういった楽しみを優先する、肩肘を張ってカポエィラに取り組まなくても良いとの学習効果かもしれません。

 かねて久保原さんから、小生にカポエィラを始めたきっかけや当時のサルバドール、サンパウロの様子を投稿して欲しいとの依頼がありました。カポエィラと再会できたことへの感謝から、この依頼を受けました。依頼の全てを満たしているとは思いません。また、恥ずかしさで隠しておきたいことなども有りましたが、一連の流れとして記憶をたどりながら、正直に書いてきたつもりです。本稿で、カルロス・セナというカポエィラのスポーツ化に生涯を捧げた人がおり、しっかりとしたルールのもと、ブラジルでは少なくとも1970年代~80年代に、カポエィラの州大会や全国大会が活発に開催されていたという歴史を理解して頂ければ、幸いです。
 
 最近、久保原さんに誤った過去のメールを再送したことをきっかけに、昨年結成されたカポエィラ連盟に顔を出すようになりました。日本でのカポエィラ大会の開催が目標のひとつに掲げられており、今後ともできる限り協力をしていこうと思っています。この連盟の会議で『アンゴラ、そしてヘイジョナルはクラシコ(古典)であり、これからカポエィラはひとつのものとしてコンテンポラニア(モダン)が主流になる。』との発言がありました。古典という分類には、なるほどと思いました。確かに、現在のカポエィラのビデオや実際のホダを見ますと、小生が学んだ頃には無かった技や動きがあります。カポエィラは進化しているし、これからも新しい技や動き、考え方が加わっていくでしょう。しかし、音楽やバレーの世界も古典とモダンがあるのと同様に、カポエィラでもクラシコとコンテンポラニアが並存するのではないかと思っています。現在も音楽やバレーの世界で古典が続いているのは、モダンとは違った形で完成の域に達しているからだとの見方があります。カポエィラが、アンゴラ、ヘイジョナルの長所を取り入れてモダンなものとなり、一方で古典なものは廃れていくのかどうか、小生にはまったく分かりません。むしろ、嘗て天才的な格闘家であったメストリー・ビンバがへイジョナルを創造したように、若い日本人の皆さんの中から、モダンを確立する人が出れば素晴らしいことです。
 
 どのようなスタイルであれ、カポエィラは多くのものを与えてくれます。肉体的能力や駆け引きの向上、楽しさとストレスの発散、そして人との交流です。有名な作家の五木寛之さんが、旅行記の随筆で、ブラジルでのカポエィラを見た感想を書いています。日本に帰国後、ビリンバウの音が耳に残り、なかなか寝付けないなか華麗な動きを思い出し、カポエィラは最高の格闘技であると賞賛されています。これを読んだ際に、五木寛之さんにも小生と同じことが生じたなと思いました。過去の小生と同じように、若くしてブラジルに滞在することが決まっていれば、五木寛之さんもカポエィラを学び始めたでしょう。カポエィラには、初めて見た人を魅了し、虜にする不思議な力があるのかもしれません。(おわり)
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by vadiacao | 2006-06-14 01:38 | その他・雑談

政岡さん連載⑦ 「カポエィラとの再会」

 2002年2月、家内が新聞のチラシを示しました。それにはJR神戸駅前ビルのNHKカルチャー・センターでカポエィラ教室の宣伝でした。カポエィラが日本に入ってきていることが信じられませんでしたが、興味本位で受講を申し込みました。大阪の団体による楽しいカポエィラ教室で、女性が多くいました。受講生の一人にどのようにしてカポエィラを知ったのかと尋ねたところ、スポーツ誌のNUMBER2001年11月号を見せてくれました。そこにはカポエィラの特集記事が組まれており、カポエィラが相当広まっているとの印象を受けました。自宅のパソコンで検索をしたところ、多くのカポエィラのホーム・ページや書き込みを見つけ、驚きました。これらホーム・ページのなかで感心するものがありました。久保原さん主宰のヴァジアソンのホーム・ページでした。

 久保原さんに1通のメールを入れたところから、このブログの冒頭で紹介して頂いた話へと展開していきました。カルロス・セナ先生の息子でアメリカのミネアポリスでカポエィラを教えているメストリー・ヨージ・セナのホーム・ページを教えてもらい、同様にメールを打ったところ、すぐに返事が来ました。国際電話をかけ、サルバドールのカルロス・セナ先生の現住所の電話番号を教えてもらいました。カルロス・セナ先生へ国際電話をかけたところ、大変な驚きようでしたが、二言目が胸に染みました。二言目は『結婚はしたのか?』というものでした。確かに異常なくらいセナボックス道場で練習をし、突然、ブラジルでは評判の経営大学院に合格したからとサンパウロへ旅立ったおかしな日本人が、ちゃんとした人生を送っているのかと、いぶかられてもおかしくないかもしれません。32歳で結婚をしたこと、その後、子宝にも恵まれたことを忘れかけたポルトガル語で話しました。カポエィラを教えているかという質問はなく、小生の結婚と家庭話に随分と喜んでくれたことに、頭が下がりました。

 2002年7月下旬から約3週間、ブラジルそしてアメリカに旅立ちました。ブラジルではカルロス・セナ先生とアゴスト先生に謝罪をする、そしてアメリカではカルロス・セナ先生の息子であるヨージ・セナ先生の道場でカポエィラ再開のための基本レッスンを受けるためでした。サルバドール滞在中、カルロス・セナ先生とは4回お目にかかりました。最初の訪問の別れ際に1冊の本をくれました。『Capoeira-Percurso』(カポエィラ- 巡歴)というタイトルで、表紙の見開きに1991年の日付で小生に謹呈するという自筆の文言がありました。郵送しようとしたが、住所が分からなかったとのことでした。前述のように小生は、1991年にはヒューストンに駐在し、音信不通の時期となった時でした。ホテルに帰り、辞書を片手にその本に目を通しました。45頁にセナボックスのカポエィラを受け継ぐ者として、10名の弟子の名前の記載があり、その中に小生の名を見つけました。謝罪に伺って本当に良かったと思いました。

 2回目と3回目の訪問では、約1時間ずつのビデオ・カメラを前にしたインタビューに応じてくれました。3回目のインタビューの際には、数名の弟子を呼び、ブラジルでは主餐である昼食会を催してくれました。このブログでの写真は、その際にとったものです。ビデオ・カメラでインタビューをしたのは、ヨージ・セナ先生からカルロス・セナ先生が重病であると聞いていたためで、念のために記録として撮っておこうと考えたものでした。小生がそれまで持っていた、さまざまな疑問をぶつけました。カルロス・セナ先生は、病気のために道場であるセナボックスを閉じ、カポエィラ研究に時間を割いていましたので、多くのことを語ってくれました。もともと使う言葉が、ハイレベルで難しく、その上、小生のポルトガル語理解力が落ち20~30%位しか分かりませんでしたので、インタビューをしながら、ビデオ・カメラ撮りは、日本への帰国後だれかに翻訳を頼めるので正解であったと思いました。4回目は、サルバドールを離れ、サンパウロへ向かう飛行場に行く途中に立ち寄りました。弟子の一人から、カルロス・セナ先生が直弟子でカポエィラを教えているものがいないことを寂しがっていると聞いていましたので、小生は次のように言いました。

-今回23年ぶりに同門の皆と会ったが、それぞれ素晴らしい人生を歩んでいる。同門の皆もそうだが、自分も困難を乗り越える力をセナボックスで学んだように思う。同門は、40歳半ば~50歳と人生で最も忙しい時期を過ごしているが、またカポエィラに戻る機会があると思う。小生は少しずつ鍛錬をして、カポエィラを再開します。あとの弟子たちもいつかはカポエィラに戻ると思うので寂しがらないで下さい。-
  カルロス・セナ先生はじっとこの言葉に聞き入っていました。別れ際に『これから2~3年に1回は伺います。』と述べたところ、『いや、無理をせず4年に1回でいい。次のワールド・カップの年に、顔をみせてくれ。』とのことでした。

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ハイムンド・カルネイロの家族とともに。
 
ハイムンドの弟子プロフェッソール・ジウソンのバチザードのあとで。








 
 サンパウロでは4日間滞在中し、メストリー・ブラジリアに大変お世話になりました。事前に久保原さんにアゴスト先生にお詫びをしたいいので心当たりがあれば教えて欲しいと頼んでいた話が伝わり、わざわざ1時間以上をかけ、車でアゴスト先生の自宅につれって行ってくれました。残念ながら、違う人物でした。がっかりする小生に同情し、それまでさまざまな機会に撮ったバチザードなど多くのビデオにもあたってくれました。結局、該当する人物を見つけることはできませんでした。

 アメリカミネソタ州ミネアポリスでは、メストリー・ヨージの道場を訪問し、1週間滞在しました。小生がカポエィラを相当忘れているからと頼んだところ、基本技を含め、楽器の演奏まで全てビデオに撮らせてくれました。さらに、父カルロス・セナから電話で小生へ渡しておくように言われたと、セナボックスでの段階別の技、鍛錬法を書いた25頁のマニュアルをくれました。メストリー・ヨージは小生の兄弟子であるハイムンド・カーネイロが教えサルバドールで道場を開いているジルソン・カルドーソ氏と協力し、アメリカ人の弟子をサルバドールへ連れて行っていました。今回のサルバドール滞在中、このカルロス・セナ先生の孫弟子にあたるジルソン・カルドーソ氏のバチザードに運良く参加しました。しかし、カポエィラを再開するならば、メストリー・ヨージのところと決めていたので、メストリー・ヨージが主宰するセナボックスUSAへ入門しました。

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 カルロス・セナ先生に別れを告げ、飛行場に行く前に立ち寄ったラゴア・ド・アバエテ

 2002年7月
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by vadiacao | 2006-06-05 18:13 | その他・雑談

葉枯病?

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 葉枯病か斑点病でしょうか?葉の周囲から茶色く枯れてきたものがあります。いちおう病気予防のスプレーもかけているんですが。20本のうち、こういう症状のものが4、5本あります。こういう葉は早くちぎってしまったほうがいいんでしょうか?
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 あと若い葉が、萎れたようにクルクルと巻いてしまうものも見られます。こういうものが3本ほどあります。
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 同じ場所で育てていても、病気知らずでぐんぐん伸びていくもの、日当たりも悪くないのに一向に背が伸びないもの、新しい葉がなかなか出ないものなど、いろいろ個性が豊かになってきました。ヒトの世界と同じですね・・・。
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by vadiacao | 2006-06-04 18:44 | カバッサ栽培日記

カポエイリスタはブラジルの民間大使

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 ロンドンのポンシアニーニョ率いるコルダゥン・ジ・オウロで練習している弥生さんから、メストリ・ブラジリアの写真が送られてきました。バチザードのときの様子です。メストリは5月14日からイタリア、同26日からイギリスをまわって、6月7日にサンパウロに戻ります。

 後ろには、メストリ・ゼー・アントニオ、エスピホ・ミリンの姿も見えますね。弥生さんからの情報によれば、エスピホは今後数年間オランダに拠点を構えて、カポエイラを教えるそうです。

 現役、最長老のメストリ・ジョアン・ピケーノのパスポートは、80歳を過ぎてから急にスタンプの数が増えました。それまでブラジル国内だってさほど旅行したことのなかったメストリが、折からのカポエイラ・ブームに乗って、地球の反対側から引っ張りだこにあっています。くれぐれも健康には気をつけていただきたいですね。

 いまやブラジル人のメストリはカポエイラの普及のために世界中を飛び回っています。ブラジル国内の道場よりも外国にいるほうが長いなんていうメストリも珍しくないですね。ブラジルの生徒たちにとってはお気の毒ですが、一方でメストリたちにとってはカポエイラの重要な普及活動であり、非常に魅力的な収入源ですから、仕方がないとも言えます。

 それにしてもカポエイラを取り巻く人の流れには驚くべきものがあります。ブラジルにいたときでも、ほんの小さなバチザードのために、わざわざフランスから来たとか、イスラエルから来たという人たちに会いました。そのフットワークの軽さ!ビリンバウの鳴るところ、カポエイリスタはどこへでも飛んで行きます!サルヴァドールのペロウリーニョは、カポエイラをするために集まった外国人で年中あふれかえっています。

 その役割はさながらブラジルの民間大使とでも言えるでしょうか。カポエイラの性格そのものが勝敗を明確に付け切らない「微笑みながらできる格闘技」ですから、交流の手段としてもこれ以上のものはないですね。
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by vadiacao | 2006-06-01 15:51 | カポエイラ全般


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