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カポエイラ・ブログ -Roda de Papoeira-


パポエイラとはカポエイラに関するパポ(おしゃべり)のこと。このホーダにはカポエイラに関心のある人なら誰でも参加できます。いちおう管理人としてグンガは久保原が担当してます。Ie~~
by vadiacao
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『メストリ・ジョアン・ピケーノ カポエイラに捧げた人生』 3

カポエイラ、メストリ・パスチーニャとの出会い
 サルヴァドールに着いて土方の見習いをしていた頃、わしより年上の友人がおった。彼も見習いで、カンジドという名前じゃった。

 彼は仕事をしながら機嫌がいいと、酒を飲んでさらに陽気になって、サンバを歌ったり、カポエイラでふざけたりしたものじゃ。あるとき彼がアウーをしたので、わしがカベッサーダをしようと踏み込んだら、口に膝蹴りを食らったことがある。彼はわしの肩を叩きながら、「ごめんごめん、気にするなよ。今度カポエイラのホーダに連れて行ってやるから」と言った。

 カンジドには、バルボーザ(Barbosa)という洗礼親がいた。彼は荷物の運搬の仕事をしていて、ラルゴ・ドイス・ジ・ジューニョ(Largo Dois de Junho)の市場で働いておった。わしはそのバルボーザを訪ねていって、カポエイラを教えて欲しいと頼んだのじゃ。

 バルボーザはわしを見ながら、「カポエイラを習いたいのか?」と聞いた。

 わしは落ち着いて、「そうだ」と答えた。

 当時は道場なんてものはなかった。みんな、路上のホーダに参加しながら、あるいはホーダを取り仕切っているメストリに頼んで教えてもらったものじゃ。例えばコブリーニャ・ヴェルジ(Cobrinha Verde;ハファエル。ビゾウロのいとこ)のようなメストリにな。ハファエルはわしの親戚じゃったが、残念ながら父方の親戚をわしはほとんど知らなかった。サルヴァドールに出てきてから少しずつ知り合い始めた。

 日曜日の昼下がり、バルボーザは仲間を集めては、コブリーニャ・ヴェルジのホーダによく出かけたものじゃ。ホーダはシャミ・シャミ(Chame-Chame)という地区で行われておった。そこには大きなマンゴの木があって、その木の下でホーダをしていた。わしはバルボーザについて練習を始めておった。ある日、たしかカーニバルのときじゃったと思うが、カポエイラのホーダが行われていて、二人の紳士がジョーゴを始めた。そのうちの一人は見たことがあったが、名前までは知らなかった。

 ジョーゴを終えたあと、その一人が言った。「わしはこれ(カポエイラ)をまとめたい。そのためにここへ来たんだ。協力しようという者はビゴッジ(Bigode)に来て欲しい」。

 その人こそがメストリ・パスチーニャ(Mestre Pastinha)じゃった。ビゴッジというのはジャウマ・ドゥートラ(Djalma Dutra)にある地区の名前だ。その後、例の仲間で話し合って、今度の日曜日にビゴッジに行ってみようということになった。

 着いてみるとバイーアじゅうのカポエイリスタたちが集まっておった。バルボーザ、コブリーニャ・ヴェルジと何人かの生徒たち、トトーニョ・ジ・マレー(Totonho de Maré)、リヴィーノ(Livino)、ノローニャ(Noronha)といったメストリたちがの。

 さっそくわしもメンバーの一員になった。それは道場というものではなく、セントロ・エスポルチーヴォ・ジ・カポエイラ・アンゴラ(Centro Esportivo de Capoeira Angola)というひとつのグループじゃった。このグループはラルゴ・ド・タンキ(Largo do Tanque)のジェンジビーハ(Gengibirra)という地区でホーダを取り仕切っていたアモルジーニョ(Amordinho)という警察官から、メストリ・パスチーニャが譲り受けたものじゃった。

 アモルジーニョのホーダには、多くのカポエイリスタたちが集まっておった。なかにはパスチーニャの弟子のアベヘ(Aberrê)もいた。彼がいつも師匠のパスチーニャのことを話していたので、一度連れてきてみろということになったのじゃ。

 当時パスチーニャは、10年以上もカポエイラから遠ざかっておったので、最初ホーダには行きたがらなかった。しかし彼がホーダに現れたとき、アモルジーニョはパスチーニャにホーダの取り仕切りを任せたのじゃ。

 みんなが言った。「パスチーニャ、仕方がないよ。このカポエイラをまとめていくのは君しかいないよ」。それでメストリもやっと引き受けることを決めたのじゃ。承諾しながら彼が言った。「引き受けてもいいが、これからは単なるカポエイリスタの集まりではなく、セントロ・エスポルチーヴォ・ジ・カポエイラ・アンゴラとしてやっていこう」

 そこでわしも生徒として加わることになり、それ以降、二度とパスチーニャから離れることはなかった。1945年ごろのことじゃった。わしが一人暮らしをしておった頃、46年から47年にかけてパスチーニャはわしの家に住んだこともある。わしが彼のグループに入ってしばらくすると、師範代を任された。カポエイラについて知っているすべてのことは、パスチーニャから学んだといってもよい。

 67年か68年ごろ、すでにカポエイラをできなくなっていた彼はわしに言った。「ジョアン、後はお前に任せるよ。わしはじきに死ぬ。もっとも肉体は死んでも、魂は生き続けるがな。この世にカポエイラがある限り、わしの名前は決して忘れられることはないじゃろう」

 パスチーニャの道場はカポエイラ・アンゴラのものとしてはサルヴァドールで最初のものじゃった。彼の死後、わしはサント・アントニオ・アレィン・ド・カルモ(Santo Antônio Além do Carmo)の要塞あとに道場を作り、メストリの名前を継承して、ジョアン・ピケーノ・ジ・パスチーニャの道場と名づけた。ところでパスチーニャの道場には、もう一人ジョアンがいた。彼はわしより体が大きかったので、メストリは「よかろう、一人はジョアン・ピケーノ(小さいジョアン)で、もう一人はジョアン・グランジ(大きいジョアン)じゃ」と言い、わしらの歌まで作った。

 
Na minha academia
Eu tenho dois meninos
Todos os dois se chamam João
Um é cobra mansa
E o outro é gavião
Quando um anda pelos ares
O outro se enrosca pelo chão

わしの道場には
ふたりの生徒がいる
二人とも名前をジョアンという
一人は蛇で
もう一人は鷹
一方が空から来るかと思えば
他方は地を這って来る


 ジョアン・グランジをメストリのところへ連れて行ったのはわしじゃよ。彼はわしより若かった。その昔、路上で公然とカポエイラが行われることはほとんどなかった。道場がなかった時代は、倉庫や知り合いの家の前でジョーゴをしたものじゃ。

 路上でカポエイラが見られたのは、たとえばお祭りなどの特別の日じゃった。そういう日は広場などで自然にホーダが始まった。ドイス・ジ・ジューニョなどの祭りの日にはパスチーニャも生徒を引き連れてよく出かけていったものじゃよ。一方メストリ・ビンバ(Mestre Bimba)は、そういうところには決して出かけて行かなかった。彼らは路上でカポエイラをすることをよく思っていなかったのじゃ。

 カポエイラが禁止されていた時代もあるが、わしがパスチーニャの道場に入ったときは、すでに禁止は解かれておった。しかしまだまだカポエイラは抑圧の対象とされていた。今日でもそうじゃがの。だからカポエイラを練習するときは人目のつかぬ裏庭やメストリの家でドアを締め切って教えてもらったものじゃよ。

 パスチーニャから聞いたところによると、彼がカポエイラを始めたきっかけは、ナザレー(Nazaré)地区で、同じ通りに住んでいた少年とのけんかに負けたことだと言っておった。

 パスチーニャが買い物に行って家に帰る途中、その少年は決まってけんかを吹っかけてきては、買ったものを台無しにしようとした。パスチーニャはいつもやられてばかりじゃった。やはり同じ通りに住んでいたアフリカ出身の老人がその様子を見かねて、ある日パスチーニャを呼んだのじゃ。「おまえはあいつにはかなわないよ。あいつのほうが強いのじゃから。ちょっと来なさい。戦い方を教えてやろう」。そう言うと部屋へ連れて行き、いすで円を囲むと、その円の中で老人はパスチーニャにカポエイラを教え始めた。

 しばらくたって、パスチーニャの腕前が上がったのを見ると、「さぁ、もうあいつとケンカしても大丈夫じゃろう」と言った。

 ある日またパスチーニャが買い物から帰ってくる途中、いつものように少年が挑発にやってきた。「さぁ、さぁ、さぁ」。「さぁ、さぁ、がどうした?」とパスチーニャが答えた。少年は怒りだし、二人のけんかが始まった。パスチーニャは相手の攻撃をかわしながら、習ったカポエイラの技を繰り出した。

 少年の母親は、いつも少年がケンカするのを見ていたが、彼がけんかに勝つのを喜んでいて、止めることをしなかったという。この日、息子が不利なのを見ると窓から叫んだ。「さぁどうするんだい?彼に負けるのかい?」。結局少年は負けてしまい、二度とパスチーニャにけんかを仕掛けてくることもなくなった。

 カポエイラは、弱いものが強いものに勝つ格闘術なのじゃ。だからこそ今までずっと抑圧され続けてきたのじゃよ。今日ようやく社会に認められるようになってきた。とはいえ当のカポエイリスタの中にさえ、小・中学校、高校や大学でカポエイラが科目として取り入れられることに反対する者がおる。わしは大賛成じゃ。カポエイラがどんどん広まっていくのじゃからのう。

 カポエイラは実に奥深いもので、その中にはすべての要素が含まれておる。だれに依存することなく、あるがままの姿で社会的、経済的に確固たる地位を築いていけばよいのじゃ。
 カポエイラは肉体的にも精神的にも非常に有益なもののじゃ。体力、柔軟性など体を鍛えられるばかりでなく、いつまでも若さを保つことができる。

<つづく>
by vadiacao | 2006-07-03 18:57 | カポエイラ全般
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